もつれ糸
清水紫琴

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)耐忍《かに》しておくれ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|酷《こく》にさ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)身|※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《あが》り
−−

「銀さんー」と、女は胸に手を差入れて、切ない思いをこらへながら、みんなあたしが悪かつたの、耐忍《かに》しておくれ、ねあたしだつて、何も酔興で、彼家へ嫁入つたといふのじやなしさ、お前さんも知つての通りな羽目になつて、よんどころなく、つひ……」
と男の面《かほ》をそつとながめて、ほろりとした。年の二十三か四でもあろう。頭髪《かみ》の銀杏返《いてふがえし》とうに結つて、メレンスと繻子の昼夜帯の、だらり、しつかけに、見たところ、まだ初々しい世話女房であつた。
「そりや、解つてらア」と、銀と呼ばれた男は、つつけんどんにいつた。酒に靡《な》へてか、よろめく足元危く、肩には、古ぼけた縞の毛布《ケツト》をかけていたが、その姿から見ると、車《くるま》夫ででもあろうか。年は女よりは三つばかり年長《としかさ》に見えた。
 大学の大時計と、上野の時鐘とが、言い合わしたように今、十時を打ち出して、不忍池畔の夜は更けた。その静けさを破つて、溝川を越えて彼方の町並を流し行く三味線《しやみ》の音がしんみりと聞こえる。秋といつても九月の末、柳は、もう大概落葉してしまつた。
「でもね。銀さん」と女は改めて呼びかけた。「そりや、あたしにア腹を立つてもおありだらうけども、何もね、伯母《おば》さんが知つておいでの事じやあるまいし、いつまでもそんな真似をしていて、伯母さんに苦労を掛けていやうといふの。……立派な手腕《うで》を持つておありだし、伯父さんの代からの花主《とくい》はたんとお有りだらうし、こころを入れ換へてさ。ちいと酒を控目にしてお稼ぎなら、直とむかしの棟梁になつておしまひだらうに、あのこんな事いつちや何だけど、お前その気は無いのかえ」
「無えー」
「無いつてお前……」と、女のことばはつまる。
「無えよ、うむー。正に無え、……俺《おいら》の手腕はとうにしびれッちまつた。手腕ばかりならいいが、脛も腰も、骨も肉も、ないし魂も根性もだツ、立派に腐つた……。しびれきつてしまつたてえ事ッ。碌でなしだからな」
 空を仰いで虹のやうな息を吐く。
「しようがないね」と、のみ、女はさらに愁然《しゆうねん》として、「お前さんは、そんなにおこつておいでだし、あたしアやる瀬がありやしない」
と、いつか、両袖で顔を隠してしまつた。あはれその心の底は、いかに激しく悶えるのであらう。肩頭《かたさき》よりかすかに顫《ふる》へた。

 しばらく経つてから、「お前そういつておいでだけども、ねえ、銀さん、何も時と時節だわね。そう一|酷《こく》にさ、いや忌々しいの、腹が立つのといつていたんじや、一日だつて世の中に生きていられはしないよ、世の中が思つたり適つたりで暮らせる位なら、人間にア涙なんてえものァいらないものさ。それがある点《とこ》がうき世をいつたものじやないの。そりや銀さんは、あたしを不人情者とも、不貞腐《ふてくさ》れとも思つておいでだろう。もとよりあたしが非《わる》いんさ。非いにァちがいないけども、底には底のあるものだよ」
 と女はしみじみと語り出した。
 渠女《かれ》は、銀が三年|以来《このかた》の惨澹たる経歴と、大酒飲みになつた事と、真面目《まじめ》に働くがいやになつた事と、この世には望みもなければ、楽しみといふものの光明も認められぬやうになつた事など、落ちも無く銀に語つて聞かされたのである。で、聞く一言一言が、渠女《かれ》の身に取ると、胸に釘を打たるる思ひ。その場へ昏倒するのではないかと思はれた事も幾度かであつた。渠女《かれ》は始終、涙と太息《ためいき》とで聞いてしまつて、さて心の糸のもつれもつれて、なつかしさと切なさとに胸裡は張り裂けんばかり、銀が今の身の上|最愛《いとし》と思ひつめては、ほとんど前後不覚。よし自分の身辺にまつはる事情や行懸りをうつちやつても……。我が身を引ン裂いてなりと、まのあたり銀が餓えと恥辱に呵責《さいな》まるる苦痛をすくはうと煩悶した。あせつたのである。身|※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《あが》りしたのである。けれども、女の身の格別好いちえも分別も出なかつた。
 そこで女は、とやかう思案を煎じつめた挙句、「ままよ」とつぶやいたかと思ふと、さきにその所夫《おつと》から預けられて、問屋場へ持つて行くべき、少なからぬ、なにがしといふ金を懐中《ふところ》から取り出した。包みのまま、銀につきつけて、それでもつて撲《ぶ》ち殺してある、鉋《かんな》や鑿《のみ》や鋸や、または手斧《ておの》や曲尺《まがりかね》や凖《すみ》縄や、すべての職業道具《しようばいどうぐ》受け出して、明日からでも立派に仕事場へ出て、一人の母にも安心させ、また自分の力にもなつてくれるやうにと、縋《すが》りつくやうにして泣き且つ頼んだ。そして
「ねえ、お願いだから」
とこれが最後のことばであつた。
 けれども、性来|執拗《ごうじよう》な銀は、折角の好意《こころ》も水の泡にしてしまつて、きつぱりその親切を、はねつけた。小気味よく承知しなかつた。渠《かれ》のいふ所によると、これでも舊《もと》は「大政《たいまさ》」ともいはれた名たたる棟梁の悴《せがれ》である。よし、母子二人|倒死《のたれじに》するまでも、腹の中をからにして往生するにもしろ、以前、我が家の昌《さか》つた頃、台所から這ひずつて来て、親父の指の先に転がされて働いた奴等の下職人《した》とはなつて、溝板|修覆《なお》しや、床などの張換へして鉋を磨いて痩腹《やせばら》膨らかすやうな、意気地の無い、卑劣《しみつたれ》な真似は、銀が眼の玉の黒いうちは、なんとしてやれぬといつた、いやだといつた。侮蔑《みくび》つて貰ふまいともいへば、心外だともいつた。つまり銀はあくまでも女の請《ねが》ひをはねつけたのであつた。

「お前がそういつて剛情を張つておいでのところを見ると、何《ど》うしてもあたしが彼家《あすこ》へ嫁入《いつ》たのを根にもつて、あたしを呵責《いた》めて泣かして、笑つてくれやうと思つておいでなのにちがひない。そりやあんまり酷《むご》いといふものじやないの、え、銀さん」
と女は途方に暮れて泣くばかりであつた。で、僻《ひが》むだやうな愚痴も並べ出して、
「そんなに慍《おこ》つてばかりいないで、あたしのいふ事もちつたァ聞いておくれな。あたしが彼家《あすこ》へ行つた当座、お前がだんだんいけなくおなりだという噂が、ちらりあたしの耳へ這入つた時、あたしァ、……あたしァまあどんなにかつらかつたらう。いつそ、彼家を出てしまはうかと思つた事も、そりや五度や三度じやなかつたね。あたしだつて人間だもの、まさかお前の心の悟《よ》めていないでもなかつたけれど、そこにア、それ……、かういつちや勿体《もつたい》ないけどまつたくさ。阿父《おとつ》さんてえ人が居なすつて、どうにもあたしの心のままにァならなかつたの、そのうち阿父さんは死んでおしまひだし……」
「な、なに?」と銀は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、「親父が亡くなつたえ。え、何時」
「一昨年《おととし》の夏さ」といつて、女は面《かほ》をそむけて、啜り上げた。「それからというものは帰らうにも実家はなしさ、心の中じや力に思つていたお前までが、どこへか引越しておしまひだし、……あたしはほんのひとりぼつちになつてしまつたの。だからさ、何もみんな無い往昔《むかし》とあきらめてしまつてさ。ねえ、銀さん。両人《ふたり》していたちこつこ[#「いたちこつこ」に傍点]して遊すんだ時分のあたしだと思つて、これだけあたしのいふ事を承《き》いておくれな、一生のお願ひだわ」
 石のやうに固くなつて聞いていた銀は、やおら、面をあげて勢い好く、「よしッ! 解つた」
「あの、承いておくれか」
「む、む!、永い事ァ厄介かけたねえ、なんの一年ばかし面倒見といてくんねえ。銀も男だ、今更|他人《ひと》の下職人《した》は働かねえが、ちつとばかし目論見があるんだ。そのうち訪ねて行つた時の姿を見てくんねえ。きつとだ。男になつて行かア!」
「好くまァそういつておくれだ。そいであたしア……」としばらく口も利き得なかつた女の眼の内には、喜悦と満足と而して感謝の意の相混じて見られた。(『万朝報』一八九九年八月)



底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「万朝報」
   1899(明治32)年8月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
全1ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング