あの、時計めが気に入らぬ。旦那の留守には、それ見た事かと、いはぬばかりに、きちきちと、私の胸を刻みおる。誰が買ふたと思ふてゐる。旦那の力で買ふたにしても、みんな私が親のもの。恩知らずの時計めが、六時を廻つて平気な顔。あのぴかぴかと白いのが、お園の顔に似てゐるやうな。お園も今は、お妾と、誰憚らず、装飾《めか》してゐやろ。今夜も旦那は、またそこにか。いよいよお帰宅《かえり》ないならば、私も腹を極めてゐる。男がようても、器量があつても、深切のない人が、どうなるものぞと思ふても、また気にかかる門の戸が、開いたは確かに腕車《くるま》の音。今夜はさうでもなかつたか。それはそれでも、よい顔を、見せては、たんと、つけ込まれる。知らぬ顔して寝てゐたら、先方から何とかいはんしよと。少しは横に仆《こ》けかけた、腹の中での算段も。がらりと違ふた、吉蔵が、へいただ今と畏る、顔つくづくと、突上げる、痞《つかえ》を抑えて起き直り『旦那はお帰宅ないのかえ』『へい今日も私に、前《さき》へ帰れと仰しやつたは、確かにさうと勘付きまして。腕車をそつと預けて置き、お跡を追※[#「足へん+從のつくり」、195−4]《つけ》てみましたら。やはり例の富士見町、恠しい家でござりまする。何でも近処の噂では、婢も二人居りまして、贅沢な生活向き。今日は帯の祝とやらで、隣近処へ、麗々と、赤飯配つて廻したとは、何と奥様、驚きますではござりませぬか。先月|彼女《あれ》が出ました晩、旦那が途中でお待受け、私が口を開かされましたが、恠しいどころじやござりませぬ。お腹に赤児《やや》が居ますもの。とうからちやんとお支度が、出来てゐたのもごもつと。これから何とあそばすお心。うかうかなさるところじやない』と、底に一物、吉蔵が、敷居を超えて、じりじりと、焚き付けかけた胸の火《ほ》に。くわつと逆上《のぼ》せて、顫ひ声『うかうかとは、誰の事。お前こそは、二度までも、旦那を途中で遁したは、恠しい了簡、それ聞かふ。おおかたこの間赤坂の、お帰り道が、かうかうと、忠義顔して、いやつたも、何が何やら分りはせぬ。お前一人は、味方ぞと、頼んでゐたが私の誤り。もうもう誰も頼みはせぬ。寄つて掛かつて、この私を、あくまで、馬鹿にするがよい。私は、私の了簡が』と。すつくと立つて、どこへやら、駈出すつもりが、ぐらぐらと、持病の頭痛に悩められ、ばつたり、そこに仆れたる、後はすやすや鼾の声。まさか寝たのじやあるまいな。これが気絶か、馬鹿馬鹿しい、脆いものだが、捨ててもおけまい。どうしてやらふと、水さしの、水を汲んで、奥様と、二声三声じや埓明かぬ。歯を喰ひしばつてゐるからは、詮方がないと、口うつし。ついでに足も温めてやらふと。己れの肌に暖めて、そろそろ撫でし、鳩尾へ、水が通ふて、うつとりと、眼を開いたる鹿子が驚き。これはどうぞと、吉蔵を、振除けたいにも、力なき、片手を、やうやう挙げかけし、ところへお松がうつかりと。はいただ今と顔出して、喫驚仰天《びつくりぎようてん》逃げて行く『あの顔付ではいひ訳しても、とてもさうとは思ふまい。困つた事をしてくりやつた。真実過ぎた介抱が、わしや怨めしい』の当惑顔を。心ありげに吉蔵が『奥様それでは、私も、お怨み申さにやなりませぬ。口から、口へ、口うつし。演劇《しばい》で見ました、その摸型《かた》を、一生懸命、やつとの事で、繋ぎ止めたるお生命を。心の駒が狂ふての、所為《しわざ》と御覧なされたか。下司の悲しさ、吉蔵が、これまで尽くした、御奉公。お気に済まぬと仰しやれば、どうも詮方はござりませぬ。直ぐにもお暇戴いて、お身の明りを立てさせませう』と。すごすご立つを、まあ待ちやと、鹿子は留めて。両頬に、ふりかかりたる後れ毛を、じつと噛みしめ口惜し泣き『かうなるからは詮方がない。お前に暇を出したとて、お松の口が塞がぬ上は、やつぱり嘘が真実《まこと》になる。さうでなうても、この間から、衆婢《みんな》が可恠《あやし》う思ふてゐる、素振りが見えるに、なほの事、腹が立つてたまらなんだも。かうした訳に落ちてゆく、因果の前兆であつたやら。これもやはり旦那のお蔭。お前は怨まぬ、了簡据えた。いふものならば、いはせておき、行くところまでは、行てみるつもり。お前もこれからその気[#「その気」は底本では「そ気の」]になつて。まさかの時の力になりや』と。思ひの外の道行が、お園の方へこれ程に、はかどつた事ならば、とうに成仏しやうもの。やはりこれでは、どこまでも、慾を道連れ、赤鬼の、役目を勤めざなるまいと。肚《はら》に思案の吉蔵が、表面《うはべ》ばかりの喜び顔『それ程までに吉蔵を、思召して下さるからは、滅多に置かぬ、狂言ながら、かうも致してみましうか』と。鹿子の耳へ吹込みし、『工《たく》みは何よりそれがよい。それでは、お園の旧夫《おつと》とやら
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