てゐるか』『はいそれは台所の方に伏せつてをりますれど。眠い盛りの年頃とて、ついした事では眼が醒めませぬ。ちよつと頼んで参りませう』と。立つを止めて『いや待て待て。知らずばてうどそれでよい。李下の冠、瓜田の沓。這入て見るも可恠《おかし》なものと、思はぬではなかつたが。ついこの外を通つたゆゑ。尋ねてみたい気になつたも、一ツは家へ帰るがいや。汝はなにかを知つてもをれば、少しも隠さぬ、察してくれ。遅刻《おそ》いついでに、今夜はここで、一寝入して行かふ。思ひ出してもうるさい』と。天晴れ男一人前、二人とはない立派なお方が。これほど御苦労あそばすが、おいとをしいとはかねてより、思ふた事も、いはれて見れば。ほんにさようでござりますると、いふてよいやら、悪いやら。ともかく勧めてお帰し申すが、お身の為ぞと、怜悧《さか》しき思案『この身風情がとやかくと、申し上げるも恐れますれど。それでは奥様、なほの事、お案じでもござりましよ。少しおあたりあそばしましたら、お帰りがお宜しかろ。奥様とても、さうさうは、おむつかりもあそばすまい。お寒うないやうあそばして』と。いふ顔、つくづく美麗しい、この心ゆゑ忘られぬ。どふやら乃公は迷ふたさふなと。巨燵の櫓《やぐら》に額を当てて『ああさて困つた、乃公が身は、家で叱られ、外では酔はされ。たまたまここで寝やうと思へば、たらぬと直ぐに突出される。それならばよい、今から行く。ただし家へは帰るまい、泊る処で、泊る分』と。すつくり立つを真に受けて『何のまあ勿体ない。外へお泊りあそばすに、ここを否とは申しませぬ。御恩を受けたこの身体、何のここが私の住居と申すでござりましよ。ただ何事もあなた様の、お心任せを、とやかくと、お詞返し上げますも、お家のお首尾がお大事さ』『ふふむ、それではこの乃公を、とても家内に勝れぬものと、見込を付けての意見かい。汝の目にも、それほどの、意気地なしと見えるのも、思ふて見れば無理はない。かうして苦労をさせるのも、やつぱり乃公が届かぬゆゑ。さあ改めて謝罪《あやま》らふ、許してくれ』との、むつかりは、胸に一物、半点も、足らぬものないこの生活《くらし》。結搆過ぎた、身の上に、させて貰ふた方様に、さういふお詞戴いては。どうでも済まぬこの胸を、割つてはお眼に掛けられず。はつあ詮方《しかた》がない、どうなとなろ。一夜をお泊め申すのが、さうした罪にもなるまいと。顔を見上げて、涙ぐむ、気色をそれと見て取つて『ほう、また泣くか、はて困つた。泣くほど嫌なら達ても行くと、いふてみたいの気もすれど。正直な汝を対手《あひて》に、この上|拗《すね》るも罪であろ。乃公から折れて頼むとしやう。さあさあ頼んだ、どこでもよい。そこが否なら、この隅へ、ころりと丸寝をするとしやう。蒲団を一枚貸してくれ、栄耀な事はいふまい』と。はやとろとろと夢心地『それではお風邪召しまする。私はたつた一夜の事、寝ませいでも大事ない』『失礼ながら』と小夜蒲団『さうさう掛けては、汝がなからふ。なに外にまだあるといふか。それならばよし、よい心地。明朝は未明に起こしてくれ。人眼に掛からば、つまらぬ事、疑はれまいものでもない。これでとやかく思はれては、鴉に阿呆と笑はれる。鴉が笑はぬその隙に、せめて、夢なと見やうか』と。何やら足らぬ薄蒲団、身に引纒ひ、すやすやと、寝入らせたまふかおいとしや。せめて来世は、主従の、隔てを取つて、一日でも、かうしてお傍に居てみたい。どふやら、ひよんな胸騒ぎ。また奥様のお肝癪。変はつた事がなければよい。明日の事が気にかかる。どうなる事ぞと、吐く息も、身体も氷るこの夜半が、悲しい中にも嬉しいに。どふぞ明けずにゐてほしい。とてもよい事、ない筈の、この一生を、一夜さに、縮めてなりとも、継ぎ足して、明けささぬやうしてみたい。これがせめての思ひ出とは、よくよく因果な生まれ定。父様母様許して下され。わしや身分が欲しかつたと。蒲団の裾にしがみ付き、はつと飛退く耳もとに。はやどこやらの汽笛の音。ゑゑ忙《せわ》しない、何ぞいの。横に仆《こ》けても居る事か。よその共寝を起こすがよい。こちや先刻にから坐つたままと。起こしともない、明け鴉。かあいかあいの方様を、かうして去なすが後朝《きぬぎぬ》か。あの汽笛めも、奥様に、似たらば、たんと鳴りおれい。ゑゑ腹が立つ、気が狂ふ。耳まで真似して鳴るからは、この身体にも愛想が尽きた。どうなるものぞと、むしやくしや腹も。さすがいとしい顔見ては、耻しさのみ先立ちて、今まで何も思はぬ振り。そつと起こして見送りし、門辺で澄が捨詞。また嫌はれに来やうぞと、顔を見られて、魂は、ふわり、もぬけの唐衣。きつつ空しく行く人の、さこそは我をつれなしと、思ひたまはむ、お後影。お寒さうなが勿体ない。せめて私もこの寒風《かぜ》にと、恍惚《うつとり》そこに佇みぬ。
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