しやんの三味の音も、いつしか遠くなる耳の、熱さに堪えず。ばつたりと、身体を畳に横霞。春の山辺の遊びかや、ほの暖かき無何有《むがう》の郷。囀る小鳥、咲く花の、床しき薫り身にしめて。ふわりふわりと、風船に、乗つたは、いつぞ。あれ山が、海も見えるは舞子に似た。この松原の真中へ、降りたら水があるかしら。咽喉が乾くと、眼を醒ませば。身はいつしかに夜着の中、緑の絹に包まれたり。南無三、これは吾家《うち》じやない。たしかこの宵、おおそれよ。衆人《みな》はどうした、あちらにか。てうどこの間と立つ袖を。もうお遅いと引留むる、女子は誰じや、汝に頼む。跡はよいやう、乃公だけは、是非に帰せと、振り切りて。門を出れば、軒毎の、行燈は、ちらり、ほらり降る、雪か霰か、あら笑止。何はいづこと、方角が分らぬながら行き行けば、赤坂見附、おおここか。つまらぬ処で夜を更かした。車夫頼むと。寒さうに、かぢけた親爺がただ一人。やつこらまかせの梶棒を、どちらへ向けます。さうだなあ、ともかく九段へ遣つてくれ。とても遠くは走れまい。そこらから乗り替えやう。はて困つたと腕車の上。薄汚れし毛布《けつと》に、寒さは寒し、降る雪に、積もつてみても知れてゐる。これから帰宅《かへ》れば三時過ぎ、寒い思ひをしたところで、ようこそお帰りなされしと、喜ぶ顔を見るではなし。冷たい蒲団は、あなたの御勝手。巨燵を入れて待つほどの、お心善しにはなれませぬ。お茶なら勝手に召し上がれ、下女はとつくに寝かせました、今を何時と思し召すと。それからちくちく時計の詮索、尖つた針で突かれても、一言いへば、二言目に。お腹が立たば、お殺しなされ、私は家の娘でござんす。去られる代はりに、死にませう。さあどうなりとして下されと、手が付けられぬに、寝た振すれば。引起こされて、窘められるは知れた事。これ程寒い思ひをして、怒られに帰《い》ぬ馬鹿もない。同じ苦情を聞かふなら、これからどこぞで一寝入。明日の事にしやうかしら。いやそれも悪からふ。薪に油を濺《そそ》ぐは罪、鹿子《あれ》は鹿子《あれ》でも、その親に、受けた恩義は捨てられぬ。はて困つた、三合の、小糠はなぜに持たなんだと、思はず漏らす溜め息に。ヘヘヘヘヘ旦那御退屈でござりませう。若い時分は、随分と、力のあつた男でも、年にはとんと叶ひませぬ。しかしもうそこに招魂社が見えますると。車夫の詞に、おおそれよ。お園は何と、身の上を思ひ続けて、泣いてもゐやう。乃公を力と頼んでも、滅多に訪ふてやられぬ身体。かういふ時に廻つて行かば、宅へも知れず、都合であれど。深夜に行かば、太田の手前。それは脇から這入るとしても、お園のおもわく何とであろ。いやいやかれに限つては、乃公を真底主人ぞと、崇《あが》むればこそ、勝気のかれが、もの数さへにいひかねて、扣《ひか》え目がちの、涙多。ああいふ女子でない筈が、ああなるほどの憐れさを、知りつつ捨てては置かれまい。やはりちよつと尋ねてやろか。たしかこの辻、この曲り、この用水が目標と。幌の中よりさし覗く、気勢に車夫が早合点。こちら様でござりまするか、それではお灯を見せませうと、頼みもせぬに、提燈持ち。案内顔の殊勝さを。無益《むだ》にさすのも不憫とは、どこから出し算用ぞや、ふと決断の蟇口開けて、そをら遣らふと、大まかに、掴み出したる銀《しろがね》は、なんぼ雪でも多過ぎまする。お狐様じやござりませぬか。人間様では合点がゆかぬ、夥しいこのおたから。せめて孫めに見せるまで、消えてくれなと、水涕を、垂らして見ては、押し戴き、戴いてゐるその隙に。澄が影は、横町へ、折れて、隠れて、ほとほとと、板戸を叩く音のみ聞こえぬ。
第六回
まあ旦那様、どうあそばしたのでござりますと。訝るお園の不審顔。さこそと澄はにこりとして『よいから跡を閉めておけ。太田へ知れては妙でない』静かにせよと、手を振りて、勝手は見知つた庭口より、お園の居間と定めたる、一間へ通るに、お園の当惑『まあどう致さう、こんなところを御覧に入れては、誠に恐れいりまする』と。外には坐敷といふものなき、空屋の悲しさ、せめてもと、急いで夜具を片付けかかるを『なに搆はぬ、それはさうしておくがよい。今時分来るからは、失礼も何もない。それよりは、その巨燵には火があらふ。寒い時には何より馳走。まづ這入つて温らふ』と。平素は四角なその人が、丸う砕けた炭団の火『掻き分けるには及ばぬ及ばぬ、これで充分暖かい。ああ寒かつた』と足延ばす『それではせめてこの火鉢に、お火を起こして上げましたいにも。火種子は、毎朝太田から、持つて参るを心当。焚付けもござりませぬ、不都合だらけをどうしたもの』と。ひいやり、冷たい、鉄瓶の、肌を撫でての歎息顔『茶などは要らぬ、止しにせい。たしか太田の婢《おんな》とやらが、毎晩泊りに来るとか聞いたが、それは今夜も来
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