、御離縁あそばすお心か』『知れた事を聞くではないか。たつた今、そちは何といふたぞや。後妻にならふといふものが、その物忘れは、実がない。乃公は確《しか》と覚えてゐるぞ。その場になつて、否といふは、どうでもそちの方らしい』と。笑ひを含んで、取り合はぬを。お園はなほも押返して『それ程までのお心には、何故におなりあそばしました』『さあ何故なつたか、乃公にも分らぬ。いづれその内知れやうから、子細の知れたその上で、聞くべき意見は聞きもせう。それまでは、何もいふな、正直者めが。そちの知つた事ではない。安心しやれ』と、笑ふてゐれど。どうでも動かぬ決心は、眉の辺りにほの見ゆるに。もうこの上は詮方がない、せめて最后の御意見に、明日は御恩に背いてなり、ここを走らふ外はなし。さうした上は、これ限り、お目に懸かれぬ事もやと。虫が知らすか、その上の、名残さへに惜しまれて、自づと浮かぬその顔を。澄も憐れと見ながらに、それ程までの心とも、知らねば、いづれその内に、我々よりはいひ難き、噂のよそより伝はりて、思ひ合はする時あらむと。その一ツをば、安心の、頼みにしての高笑ひ。笑ふてお園を慰むるも、半ばは自ら慰むる、心と知らで、白露の、情ありける言の葉を。無分別なる置き所と、賤が垣根に生出《おひい》でし、その身をいとど怨みしなるべし。

   第九回

 もしお園様え、今日は浅草の年の市、まだ暮れたばかりでござんすほどに。私どももこれから下女を連れて参る筈、留守は主翁《あるじ》が致しまする。あなた様も、是非にお出でなされませぬかと。澄が帰りしその跡へ、太田の妻の入来るに。今日はわけてのもの思ひ、そこらではないものをと、いひたい顔を、色にも見せず。愛想よく出迎えて『それはそれは御深切さまに、有難うござりまする。お供をいたしたいはやまやまなれど。今日はちと、気分が勝れませぬゆゑ、せつかくながら、参られさうにもござりませぬ。それよりは、お帰りのその上で、お話を承るが、何よりの楽しみ。お留守は私が気を注けませう。御ゆつくりとお越しなされて』といふを押さえて『さあそれゆゑ、なほの事お誘ひ申すのでござりまする。御気分が悪いと仰しやるも、御病気といふではなし。お気が塞ぎまするからの事なれば。賑やかな処を御覧なされたら、ずんとお気が紛れませう。ただ今も深井様、お帰りがけにお寄りあそばしまして。どうもあなたが、お気重さうに
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