後はすやすや鼾の声。まさか寝たのじやあるまいな。これが気絶か、馬鹿馬鹿しい、脆いものだが、捨ててもおけまい。どうしてやらふと、水さしの、水を汲んで、奥様と、二声三声じや埓明かぬ。歯を喰ひしばつてゐるからは、詮方がないと、口うつし。ついでに足も温めてやらふと。己れの肌に暖めて、そろそろ撫でし、鳩尾へ、水が通ふて、うつとりと、眼を開いたる鹿子が驚き。これはどうぞと、吉蔵を、振除けたいにも、力なき、片手を、やうやう挙げかけし、ところへお松がうつかりと。はいただ今と顔出して、喫驚仰天《びつくりぎようてん》逃げて行く『あの顔付ではいひ訳しても、とてもさうとは思ふまい。困つた事をしてくりやつた。真実過ぎた介抱が、わしや怨めしい』の当惑顔を。心ありげに吉蔵が『奥様それでは、私も、お怨み申さにやなりませぬ。口から、口へ、口うつし。演劇《しばい》で見ました、その摸型《かた》を、一生懸命、やつとの事で、繋ぎ止めたるお生命を。心の駒が狂ふての、所為《しわざ》と御覧なされたか。下司の悲しさ、吉蔵が、これまで尽くした、御奉公。お気に済まぬと仰しやれば、どうも詮方はござりませぬ。直ぐにもお暇戴いて、お身の明りを立てさせませう』と。すごすご立つを、まあ待ちやと、鹿子は留めて。両頬に、ふりかかりたる後れ毛を、じつと噛みしめ口惜し泣き『かうなるからは詮方がない。お前に暇を出したとて、お松の口が塞がぬ上は、やつぱり嘘が真実《まこと》になる。さうでなうても、この間から、衆婢《みんな》が可恠《あやし》う思ふてゐる、素振りが見えるに、なほの事、腹が立つてたまらなんだも。かうした訳に落ちてゆく、因果の前兆であつたやら。これもやはり旦那のお蔭。お前は怨まぬ、了簡据えた。いふものならば、いはせておき、行くところまでは、行てみるつもり。お前もこれからその気[#「その気」は底本では「そ気の」]になつて。まさかの時の力になりや』と。思ひの外の道行が、お園の方へこれ程に、はかどつた事ならば、とうに成仏しやうもの。やはりこれでは、どこまでも、慾を道連れ、赤鬼の、役目を勤めざなるまいと。肚《はら》に思案の吉蔵が、表面《うはべ》ばかりの喜び顔『それ程までに吉蔵を、思召して下さるからは、滅多に置かぬ、狂言ながら、かうも致してみましうか』と。鹿子の耳へ吹込みし、『工《たく》みは何よりそれがよい。それでは、お園の旧夫《おつと》とやら
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