する人よ、その様な婦人のあるならば、始めより私を迎へぬがよし、また迎へし位ならば、さような事を止むべきにと、思ひましたが、もとよりさる事を口外致す筈でないと、独り心に秘めまして、をもしろからぬ月日を送ツておりました。それから後と申すものは、三月より四月、四月より五月と、だんだんに夫の外出が繁々《しげしげ》になりまして、遂には三日も四日も、いづれへか行きて、家に帰らぬことなどもありました。始めの内は、私も二晩三晩も眠らないで、待つておりましたが、幾夜も続きますと、もうそうそうは眼も続かず、ついとろとろと眠る事もありましたが、もの事と申すものは、何てもあいにくなもので、さような晩に限りまして、夫は深更に帰つて参りました。門を叩く音がふと耳に入りまして、急ぎ戸をひき開くれば、夫は酒気を芬々とさせながら、私を睨み付けまして、「なんだ、先刻《さつき》にから戸の破れる程叩いたじやあないか、なぜ開けない、隣家《となり》へ聞こえても不都合じやないか、夫を戸外に立たせておいて、優々閑々と熟睡しておるとは、随分気楽な先生だ」など、囁《つぶや》かるる心苦しさ。それらの事は、忍ぶ事も出来ますが、夜中《やちゆう》かく怒りの声きこへては、下女などが目を醒まし誤つて夫の帰りの遅きをば、私がとやかく言ひ争ふなど思はれましては、実に不面目極まる事と思ひましたが、それを申し出せばなほさら小言《つぶや》かるることと、ぬれ紙にでもさはる様に、あなたの御無理はごもつともとひたすらに謝りゐり、どうやらこふやら、睡りに就いて貰ふ事はたびたびでござりました。かかるたび毎に、私は、学校に在つた時の事など思ひ出しまして、我が同級のもつとも仲|善《よ》かりし某姉《ぼうし》も、まだ独身であるものを、誰某《なにがし》もまた今は学校に奉職せられしと聞くに、妾《わらは》のみはなど心弱くも嫁入りして、かかる憂き目を受くる事かと、不覚の涙に暮れたる事もありました。
父はその頃遠方へ行き、里には母のみ残つておりました。母はさすがに女親とて、これらの事の察しも早く、私がたまさか里へ帰りますたびに、どふやらそなたは、近頃顔色も悪ひ様だし、たいそう痩せた様だな、なにか心配でもあるのではないか、お父さんがこちらにゐらつしやれば、どうとも御相談の申し様もあるけれども、女親の私では申したところが仕方もあるまい、まあまあとにかく、お前の身を大事にして、あんまり心配せぬが宜しいと、いはるる時の悲しさ。泣くまじとは思へど、平常《ふだん》気の知れぬ夫の傍に居て、口さがなき下婢《げじよ》の手前などに気をかね、一途に気を張詰めたる身ですから、たまたま嬉しき母の詞《ことば》を聞いてはしみじみ母の慈愛《なさけ》が身に徹して、イイエ、なに、心配などはござりませぬと、口には立派にいひ放ちましても、あいにくに滝なす涙は、私よりも正直に、母に誠を告げました。私はそを見せじとて、ソーツと、手巾《ハンカチーフ》もて目を拭ひ、そしらぬ顔で母の方を見ますれば、母は私より先に、はや眼の縁を真赤にして、をりました。かかる事がたび重なり、母は終《つい》に、それ故と申すでもござりますまい? なれども、平常《つね》から病身の身とて、遂に全く床に就く事となりまして、程なく私の事をいひいひはかなくも、私が十九の秋|朝《あした》の露と消へ失せました。その時の私の心の裏《うち》、申すもなかなか愚かな事でござりました。最初は、母も私の身を早く片付けて安心せんと思ひ、私も母があまりに心配致しますから、母の心も休めたいと、すすまぬ結婚を致しましたが、その結婚が仇となりて、母の命を縮めたかと思ひますれば、胸も張裂ける様でござりました。なれども、私はこれも皆私の行届かぬ故と、観念致しまして、叶はぬまでもと、なほも不遇悲惨の裏に二年の月日を送りました。実に反動と申すものは恐ろしいもので、私はこの結婚後の二三年間において、いつとはなく、非常に女子の為に慷慨《こうがい》する身となりました。もつともその頃は、てうど女権論の勃興致しかかつた時で、不幸悲惨は決して女子の天命でないといふ説が、ようやく日本の社会に顕《あら》はれて参りました。私も平素好めることとて、家事紛雑の傍らにも、ときどきの新刊書籍、女子に関する雑誌などは、絶へず座右を離さず閲覧しておりましたものですから、いつとはなく、泰西の女権論が、私の脳底に徹しまして、何でも日本の婦人も、今少し天賦の幸福を完《まつた》ふする様にならねばならぬと、いふ考へが起こつて参りました。それ故、一つは自分の憂鬱を慰むる為、一つは世間幾多の婦人達の不幸を救はむとの望みにて、時々こむずかしきことなどを申す身となりました。さてそうなつてみると私の覚悟がよほど変わつて参りました。それまでは支那流儀に、ただ何事も忍んでさへゐればよい、自分の
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