あこのこわれたる指環、この指環に真《まこと》の価《あたひ》の籠もつてゐるとは、恐らく百年の後ならでは、何人《なんぴと》にも分りますまい。
何だか改まつてお話を致しませうと存じましたら、もう胸がいつぱいになつて参りました。忘れも致しませぬ、私がこの指環を私の手にはめる事となりましたのは、今よりてうど五年前のことで、私が十八の年の春でありました。私はちようどその春結婚致しましたので……夫から贈られたものなんです。けれどもただ今で申します契約の指環なぞと申すつもりで与へられたものではありません、ただ何心なく私に買つてくれましたものでござりますが、今から申せば、これを契約の指環と申しても差支へはないのでございませう。
全体その節、私が結婚致しました頃などは、女子教育の種子《たね》が、ようやくちらほらと、蒔《ま》かれたと申す位の時でござりましたから、私も今日の思想の半ばをすら持ちませず、殊《こと》に私は地方におりましたものですから、同じ五年前でも、東京の五年前とはよほど違ひまして、西洋人の夫婦間のありさまなどは、全く夢にも見ました事はござりませず、また完全なる婚姻法はどんなものと申す事も聞かず、ただただ日本古来の仕来《しきた》りのままをあたりまへの事と心得ておりました。そして、また私が教育を受けた女学校などでも、その頃は、専《もつぱ》ら支那風の脩《しゆう》身学を修めさせまして、書物なども、劉向列女伝《リユウキヤウれつじよでん》などと申す様なものばかり読ませておりましたから、私もいつとはなくその方にのみ感化されまして、譬《たと》へば見も知らぬゆひなづけの夫に幼少の時死に別れたればとて、それが為に鼻を殺《そ》ぎ耳を切りて弐心《ふたごころ》なきを示せしとか。あるひは姑が邪慳《じやけん》で嫁を縊《くび》り殺さうとしても、婦にはいつも自ら去るの義なしとて、夫の家を動かなかつたとか申す様な事を、この上もなき婦人の美徳と心得ておりました。ですから、その時分の考へでは、夫といふものは、実にどの様な人が当るかも知れず、てうどかのみくじとか申すものを振るやうに、吉でも凶でも当つたものは仕方なく、ただただ天命に任《ま》かし、自分は自分の義を守り、生涯を潔く送るまでの事と覚悟致しておりました。それに、母は女大学をソツクリそのまま自分の身に行なつて解釈して見せたと申す位の人でありましたから、父に対
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