と|踊り場《ランディング》からさらに廊下が前方にのびているらしく、それ自身迷路のような風がわりな構造にあっけにとられていると、女はとつぜんこづくようにおれを左手の小部屋におしこんだ。いったい幾間あるのか見当もつかない。この家は路地の角にあるのではなく、両隣とうしろがおなじような家々と密接しているので、ことによったらそれだけの大きな家を、外観だけ三軒ないし四軒にわけたのかもしれぬと思った。事実こういう家は日本でもめずらしくない。
部屋へはいると女は、さっきの水のようなつめたい態度とはうってかわって、わびしい異郷にあっておなじ日本人にであったというよろこびを誇張して、さもさもなつかしくてたまらぬといったあんばいで必要以上に濃厚なしな[#「しな」に傍点]をしてまといついてくる。
「うれしいわ、うれしいわ、うれしいわ」
などといいながら部屋のまんなかで、首にだきついてぐるぐるまわったりするので、すくなからずおれは面喰った。
じいっと耳をすますと隣室やほうぼうの部屋々々の壁をとおして、えへんえへんとのどをきる音やぼそぼそいう会話がきこえてくる。のんきな人間にゃきこえないのだろうが、おれの聴覚はドビュッスイのように鋭敏だ。戸外が死のようにしずまりかえって、家がひろすぎたりして、なにかこうおっかない事件がおこりそうな、場所が場所だけにひどくぶきみな思いをした。
おれの体があまり健康でないということは説明するまでもないだろう。ひるよる逆のまるで梟《ふくろう》のような日々をおくっている体には、ながねんの夜露が骨のずいまでしみこんでいて、五年や十年の摂生でははらえそうもない。なまじいはらおうとも思わぬ。なんのための摂生だろう。なんのための養生だろう。摂生といい養生といい、どこにもたよるべき家郷をもたぬ永遠のヴァガボンド、よせうつ寂寥《せきりょう》と孤独と絶望の波をたえず頭からひっかぶっているおれにとって、それはまるで泡みたいなものだ。おなじ泡なら泡盛のほうがいい。ヴェルレエヌじゃないが、「げに我れはうらぶれて、ここかしこさだめなく、飛び散らう落葉かな」というわけで、自慢じゃないが婦人病以外の病気はたいていわずらった。なかでも業病は腹だ。日本にいる時からとんがらしをぶっかけた牛シャリやワン・コップで腸の壁面をすっかりただらせてしまったのだろう、きたないはなしだが、下痢でない日はない。人は腹だというとばかにするが、なかなかどうして、こいつがもてあましもんなのだ。酒の気がきれるときまって左っ腹が、大腸とかいうところがしくりしくりといたみだす。で、その晩もアルコオルがきれたので、こういうことだけはパンクチェアルに、しくしく便意を催おしはじめた。便所はどこだと女にきくと、そこの階段をおりて廊下を右にいって、つきあたってから左へいったところだというややこしい返事なので、そいつを口んなかでくりかえしながら、蹠《あしうら》にひんやりするスリッパの音をぺたつかせて廊下をつたっていった。
腹がさっぱりするまでかなりながい時間がかかった。さて部屋にかえろうと廊下をもどってゆくうちに、さっきまがった角がわからなくなってしまった。とにかくかん[#「かん」に傍点]で、さいしょの階段ににかよったところまででたが、なにぶんひろい家なので、ここだと確信はできない。酔いがさめたためにかえって勝手のわからなくなることはよくある。まごまごすればよけいまよいこんでしまいそうなので、なんとかなるだろうという気で、眼のまえの階段をあがっていった。廊下をはさんでおなじような部屋がふたつ、むかいあってならんでいる。たしか左の部屋だったと、無造作にあけようとした瞬間、その部屋のなかから、気息奄々《きそくえんえん》たる女のうめきがきこえてきたから、たまげた。
さあ、これからがはなしだ。
まさにあけようとしたおれの手ははっと息をころすと同時に、ドアのノブにひっついたまま動かなくなってしまった。なにか殺伐な事件がなかでおこりつつあるに相違ないと直感したのだ。もどろうか、そのまま様子をうかがっていようかと、ちょっとのま思案したが、そうこうしているうちにも苦悶の吐息は遠慮会釈もなく、おしつぶされたようにひびいてくる。おれの眼はほとんど本能的にドアの隙間に吸いついた。たてつけのわるい蝶番《ちょうつがい》のゆるんだドアのボタンが穴にきっちりはまらないで、しめたつもりでもわずかではあるがななめの隙間をつくり、そのまま動かなくなる時があるものだ。ちょうどその時がそうで、ドアとドアの接する壁との合わせ目の下方に、四五分の隙間があいている。相手がのぞかれていることをしらない場合の隙見ほどおもしろいものはない。「隙見のトム」をきどりつつ、が、その場合にかぎりおもしろいなどという余裕のある気持でなく、むしろ機械的に、心中は戦々兢々《せんせんきょうきょう》と、その堺い目に吸いついてしまった。
なかは一瞥して自分の部屋でないことがわかった。というのは、そこは畳数にしていえば十二畳余のひろさで、つきあたりの壁まで約四間はあり、視野が隙間に応じて底辺三尺くらいの三角形にくりぬかれ、正面の壁際にベッドのなかばがみえ、そのうえで縄でしばられた女の真白な下半身が陸にあげられた魚のようにぴょんぴょんとびはねている。しかも、おれののぞいている鼻のさきにはひとりの黒服をきた男が、女の奇妙なありさまをじいっとみつめているらしく、二本の足が脚立のようにつったったまま微動だにしない。いったいなにごとがおこっているのだろうと、もちまえの好奇心が湧然とむらがりおこり、そっと体をずらせてななめに顔をおっつけ、女の顔をみるために必死の横目をつかったもんだ。ところがどうだ、そのベッドのうえでは殺人がおこなわれているではないか。
加害者は台上に膝をついて女の首にズボンのバンドをまき、ぐいぐいしめつけているので、確実な身長はわからなかったが、奇型といいたいほどの極端な小男で、しかも兇悪無惨な、おれはあんな人相のわるい男をみたことがない。ドストエフスキイの「死の家の記録」にでてくる兇暴無類の囚人ガアジンという男もかくやと思われるようなやつで、生得の殺人者とはああいう男のことをいうのだろう。眼がぎょろりとしていて、樽柿のようなししっぱなで、唇はあつく前方につんでていて、眉と生え際がつづいていると思われるほど額がせまく、しかも刑務所からでてきたばかりなのか、まだのびきらぬ頭髪を日本の職人のように角苅りにしていて、まことに不調和なことに、柄にもなく衣裳だけはりっぱな、ふとい棒縞のパジャマをまとうている。満面を※[#「けものへん+非」、126−13]々《ひひ》のように充血させ、バンドをしめるたびに、女はううん、ううん、とうめく。半裸の肢体は荒縄でたかてこてにしばられ、髪をみだし、そのうえさるぐつわをかまされているので人相はよくわからなかったが、じいとみつめているうちに思わずあっとでかかる息を力まかせにおさえつけた。
その女こそさっき迄おれの部屋にいたあいかたじゃないか。いったいこの部屋でなにがおこなわれているというのだ。むろん人殺しだ。眼のまえの脚立のようにつったっている男はだれだろう。どういう料簡で人を殺害させ、それを身動きもせず見物しているのだろう。そういえば部屋の模様もなんとなくへんだ。妙に古めかしい壁かけがさがっていたり、王朝ふうの蒼味をおびた椅子や花瓶がおいてあったりして、――などと、ばくぜんとこんなことを考えているうちに、自分がいま、いかにけんのんな状態にいるかに気がついた。こうしちゃあおられぬ。まごまごしているととんでもないとばっちりをくわねばならぬ。ながいは無用と腰をあげたとたん、部屋のすみからとつぜん男の陰気なバスがこういった。
「そうだ、もっとしめろ、もっともっと」
室内にはもうひとりの別人物がいたのだ。と同時に、それまでからくもささえられていたななめのドアが、身動きのために、かすかではあったが、――ことん……と音をたてて、五分以上もただしい位置にあいてしまった。しまったとばかり、ぴたりと息をころすと、それまでまばゆいくらいに煌々とかがやいていた電燈が、――ぱちいん……という暗示的なスウィッチの音とともに、まっくらになった。とりもなおさず、やつらはおれの隙見にかんづいたのだ。さあこまった、一刻もゆうよはしていられぬ。たんなる隙見だけでも、こういう家の風習として極端にいやがり、半ごろしにするくらいだから、おそるべき秘密をしられたやつらは、うむをいわせずおれの首にも魔手をのばしてくるに相違ない。よオし、くるならこいという身がまえで、しかし多分にびくつきながら、眼のまえのドアのひらかれるのを今か今かとまった。
だが、この家でこれ以上のさわぎをおこすことはやつらにとって不利だとでも思ったのか、しいんとしずまりかえって身動きのけはいすらきこえない。やつらも息をこらしているのだ。もはや天国にたびたったのか女のうめきもきえていた。にげればにげられるぞとかんづいたので、蟻ほどの音もたてぬよう全身をよつんばいに凝固させたまま、一進ごとに念をいれて廊下をはえずり、右手の部屋のドアをあけた。そこがおれの部屋だったのだ。気をつけてみると前後に階段があるので、右左が逆になっていたというわけなのだ。大急ぎでみじたくをととのえ、最初の階段をおりて出口へで、ネクタイもむすばずに戸外へとびでた。夜半はいまその高潮にたっしたのであろう、相変らず青水晶のような透明な月が魔窟のてっぺんにのぼって、きた時くらかった路地々々やはげおちた屋根々々をひるまのようにさえざえとてらしている。ああ、この妖街の一隅で、おれのあいかたがころされた、ころされるところをみてしまった、とこう思うと、ばかばかしいことだがぞオっとして、路地を足ばやにかけぬけ、こきざみに表の商店街のほうへはしっていった。
ところがどうしたことだろう、あながちにさっきの殺人事件と関係があるとは思えないのだが、客待ちのタクシーが一台もみあたらぬ。こうなったらあるいてかえるより道がない。あるいてかえったとて、おれの下宿まで二時間ばかりだからたかがしれているし、それに夜道はなれている。おれは頭のなかで、克明に道順をかんがえつつ、ねしずまった深夜の街衢《まち》をとことことあるきはじめた。ところどころでさびしい灯を鋪道にはわさせている立飲屋で、アタピンをひっかけちゃあ元気をつけてあるいてゆくうちに、さむさはさむいが風がないだけに歩行がらくで、ひととおり背後をふりかえってからせんこくの奇態な殺人事件を、もういちどかんがえてみた。
まず、なぜあのじごくがあの家でころされなければならないかという理由だ。不愛想で、陰気で、みようによってはなんとなく秘密ありげな女だったが、ふっと、ああいう特殊な社会の脱走者にたいする刑罰が、いかに苛酷をきわめたものであるかに思いあたった。なるほどあの女は、他国にいて、ああいう社会には適さぬ、いかにも脱走すらしかねまじい反逆的な女だ。柔順につとめあげるためには、やけならやけなりに、もっとほがらかでなくてはいけない。脱走がぜったいといってもいいほど不可能なあの社会で、こっちから手をくだしてあやめるというのは損得からいっていかにもあわないはなしだが、同業の女たちへのみせしめから、さきざきあまりかせげそうもない女をことさらねむらせてしまうというはなしはきいたことがある。
現場に、加害者のほかにふたりの男がいて、なにやら指図をしていたという点からも、こうかんがえられないことはない。たぶん、抱主か土地ゴロに相違あるまい。ああ、とんでもない女にかかわってしまったもんだと、すくなからず腐りつつ夜の街をあるいていった。
やがて、みおぼえのあるS河にかかるM橋のたもとに、やっとたどりつくことができた。ここまでくればもうだいじょぶだと、おれの足はいっそうはずんできた。
夜半の洋々たるS河のながめは思ったよりよかった。鏡のようにすみわたった大空にはいつあらわれたのか丘のような白雲がのろの
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