《ぼんやり》して来まして所謂軽度の意識|溷沌《こんとん》に陥り追想力が失われる様で有ります。従って酔中の行動に就いては覚醒後全然記憶の無い場合が往々有ったのであります※[#終わり二重括弧、1−2−55]――益々好色的な気分に成って未だ当《あて》の定らない裡に最早や其の牛屋に坐って居る事に怺《こら》えられなく成り、歩き乍ら定めようと元の活動街の方へ引返して参りました。池之端《いけのはた》の交番を覗くと時間は意外に早く経過したものと見え時計は十一時半頃を示して居りました。閉館後の建物は消灯して仄暗い屋根を連ね人脚もばったり途絶えて、偶《たま》に摺れ違う者が有れば二重廻《にじゅうまわ》しに凍え乍ら寒ざむと震えて通る人相の悪い痩せた人達許りで、空には寒月が皎々と照り渡って居りました。酔中の漫歩は自ら女郎屋に這入る千束町《せんぞくちょう》の通りを辿りまして、軈《やが》て薄暗い四辻に出た時です。――旦那、……もしもし、……旦那。……と杜切《とぎ》れ杜切れに呼ぶ皺枯れた臆病想な声が私の耳の後で聞えました。私は立ち止って振り返る必要は無かった、と云うのは電柱の蔭に夫迄《それまで》身を潜めて居たらしい一人の五十格好の鳥打帽《とりうちぼう》にモジリを着た男が、素早やく私と肩を並べて恰《あたか》も私の連れの如く粧《よそお》い乍ら、ぶらりぶらりと歩調を合わせて歩き始めたからであります。私は其の男が春画売りか源氏屋に相違無い事を、屡々の経験から直《ただ》ちに覚《さと》る事が出来ました。案の定男は、相手の顔から些《いささか》の好色的な影も逃すまじとの鋭い其の癖如才無い眼付きで、先生、十七八の素人は如何です?――と切り出して参りました。矢張り源氏屋だったのであります。私とて是迄彼等の遣口《やりくち》には疑い乍らも十度に一度は※[#始め二重括弧、1−2−54]真物※[#終わり二重括弧、1−2−55]に出喰わさない事も無かろうと微《わず》かな希望を抱き、従って随分屡々其の方面の経験は有りましたが、其の範囲内では毎時《いつも》ペテンを喰わされて居ました。三十過ぎにも見える醜い女が、小皺だらけの皮膚に白粉を壁の様に塗りたくり、ばらばらの毛髪をおさげに結って飛んでもない十七八の素人[#「十七八の素人」に傍点]に成り済まし、比類稀なる素晴らしきグロテスクに流石《さすが》の私も匆々《そうそう》に煙を焚いた程の
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