親類の人に似ていましたか」
と、小さな声で申されまして、何か意味ありげに、微笑《ほほえ》まれたのでございました。
単調な、温泉宿の日々ではございますものの、時のたつのは早いものでございまして、私たちが、この温泉町へ参りましてから、はや、二週間の日が過ぎたのでございます。あすは、いよいよ、かえりましょう、と、御隠居さまが申された、その夜のことで、ございます。
「あす、お土産を買うといっておりましても、何やかやと慌ただしいでしょうから、今夜のうちに、何か買っておかれましたらいいでございましょう。私が行ってもよろしいけれど、少し頭痛がするようでございますから、宿のお女中さんをお連れに、何か買っていらっしゃいませ、お勘定は、宿の方へとりに来るように申されるとよろしいでございましょう」
御隠居さまは、かように申されたのでございました。
「では、やっていただきましょう」
私は、かように答えまして、身じたくを、ととのえたのでございます。買いものと申しましても、温泉町のことでございますから、宿の部屋着のままで、およろしいではございませんか、と、宿のお女中も申したのでございますが、それにいたしましても、若い娘の身で、そうしたことは、あまりにも、はしたないと考えまして、旅だちの前に御隠居さまに買っていただきました、島原模様の振袖に絵羽模様の長襦袢、それに、塩瀬の丸帯まで、すっかり、来たときそのままの身仕度をととのえまして、
「では、伯母さま、ちょっと行かせていただきます」
と、ご挨拶いたし、お部屋を出たのでございます。ところが、私といたしましたことが、宿を出て、道の一、二丁も参りましたとき、思いついたのでございますが、御隠居さまの御用を承《うけたま》わって来ることを、失念いたしていたのでございます。
(これは、大変なことを、御隠居さまとても、お土産を買っておかえりにならねばなるまいに、自分のことだけを考えて、御隠居さまのご用事を、つい忘れてしまいました)
私は、こんなに自分で申しながら、そして、われと我が粗忽《そこつ》さに、思わず、顔を赤らめながら、宿のお女中には、表で待っていただき、お部屋にとってかえしたのでございます。しかし、表玄関から、廊下をつたって行きましては、時間もかかりますこととて、お庭づたいに、離れのお部屋へ急いだのでございます。ところが、いつもは、障子も開けたままでいられる御隠居さまが、ぴったりと、障子をたて切り、電灯も消されまして、薄明るい、まくら雪洞《ぼんぼり》にしつらえました、小さなあかりをつけていられるのみでございます。私は、飛び石をつたいながら、はて、不思議なこと、と思わず、立ちどまったことでございました。中には、たしかに御隠居さまがいられます。しかし、障子にうっすらと、さした影から考えますと、おひとりではございませぬ。誰か、も一人の方と、向い合って、じっと、していられるご様子でございます。私は、あまりにも、そのご様子に、常ならぬものを感じたのでございました。はしたないとも、無作法とも、そうしたことを考える余裕もございませぬ。音をたてぬよう、静かに、縁側に上がって、障子を細目にひらき、そっと中をのぞいたのでございます。と、雪洞のうす明るい、真白い光にてらされて、御隠居さまの、無言で、じっと、坐っていられる姿が見えたのでございます。前には、どなたが、……こう考えまして、ひとみをこらしました時、私は、われにもあらず、
「あっ……」
と、声を上げたのでごさいます。私の目にうつりました人影、それこそ、誰の姿でもございません。私ではございませんか。――まくら雪洞の、蒼白い、にぶい光の中に、じっと坐ったまま消えいりそうな女の姿、顔から、あたま、着ている着物、島原模様に染め上げた、絞縮緬の振袖と、白く細い手くびに見える絵羽模様の長襦袢それに、絞塩瀬の丸帯から、大きく結んだしごきまで、何からなにまで、わたくしに相違はございません。御隠居さまは、それが、ほんとの私とお考えになって話していられたのでございましょう。背を、つめたいものがさっと流れました。身体が、がたがたと、顫《ふる》えて参りまして、後から、大きな、まっくろな手が、私に襲いかかったように感じました。と、そのまま、私は、深い、ふかい谷底へ気がとおくなってしまったのでございました。
×
あれから、もう、まる一年、分限者《ぶんげんしゃ》の御隠居さまとは、表かんばん、よからぬ生業《なりわい》で、その日その日をお暮しになっていたとは言いながらも、私には親身のように、おつくし下さった御隠居さま、それに、あの、私と生き写しのお千代さま、いま頃は、どこでどうしていられますことやら。今にして思いますれば、お千代さまと『でぱあと』でお逢いいたしました時――もうあの時分、あの方々は、私のことをご存じであったのでございましょう。――さては、話に聞いていたのは、この娘さんのことでもあろうか、真実《ほんとう》にわたしによく似た方もあるもの、この人なれば、仲間うちのものが、下町風に身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》した自分とも思い違えて、こちらの袖に物をかくすほどのことは無理からぬこと、さぞや、おかえりになって、立派な指差がころげ落ち、驚かれたことでもあろう。こんなことをも、お考えになったでございましょう。それと同時に、あのような――私をご自分の傀儡《かいらい》にして、御隠居さまともどもに港の街をはなれさせ、お上の注意をそちらへむけた内に大きなお仕事をなさる計画も、おたてになったのでございましょう。御隠居さまや、お千代さまがお考えになりましたように、お上の方は、御隠居さまにつれられた私を、ほんもののお千代さまとお考えになったのでございましょう。それがために、わざわざあの遠い湯の町まで、後を追ってお越しになり、私たちの様子を見まもっていられたのです。しかし、これはお二人さまの予期されていましたこと、それでこそ、必要な場合には――犯罪の行われました当時、千代とわたくしは、あの湯の町にいたのに相違ございません、私たちを監視なされていたお役人さまがご証明くださるでございましょう――と、いったことがいい得る訳でございました。
お千代さまのお仕事が、難なく運んでおりますれば、ああした手違いも起こらなかったでございましょう。が、もくろんだお仕事に失敗なされましたことと、その報告のため、私たちの宿に姿をお見せになったことが、すべてに破綻《はたん》をきたしたのでございましょう。よい頃を見はからって、私とお千代さまを入れかえるために、二組をおつくりになり、その一つをわたくしに下さった、あの立派な衣裳も、結果は、ただ、私を驚かせるに役立つにすぎないのでございます――わたくしの、夜の静寂《しじま》を破った叫び声、それが、すべての終りであったのでございました。かけつけられた、お上の方――あの、お庭そうじの男衆に姿をやつしていられました警察の方も、初めのうちは、さぞ、
常※[#歌記号、1−3−28]こちらにもおくみさん。こちらにもお組さん。こりゃまあ、どうじゃ。
という唄の文句にございますように、仰天なさったことでございましょう。それにいたしましても、時おり、三味線とり上げ、常磐津『両面月姿絵』なぞ、おさらいいたしますとき、
※[#歌記号、1−3−28]奈良坂やさゆり姫百合にりん咲き
と、思わず唄いすぎましては――もし、わたくしを、このさゆりにでもたとえていただけば、あの姫百合にも見まほしい、いま一人の私、お千代さまは、いまは、どうしていられることやら、と、かようなことを、つい思い浮べては、三味ひく手をしばし止め、あらぬ方をじっとみつめるのでございます。
[#地付き](一九三六年十二月号)
底本:「「ぷろふいる」傑作選 幻の探偵雑誌1」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」
1936(昭和11)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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