うした町のかたすみにございまして、別に、これと申すほどの資産もございませんでしたが、それにしても、住んでいる家だけは自分のもの――と、こういった気持ちが、いくらか、私たち母娘《おやこ》の生活を気安くさせていたのでございましょう。

 母は小唄と踊りの師匠でございました。しかし、ただ今で申す、新しい唄とか、踊とかの類ではなく、昔のままの、古い三味線唄、いわば、春雨《はるさめ》、御所車《ごしょぐるま》、さては、かっぽれ、と申しますような唄や、そうしたものの踊りの師匠だったのでございます。母は別に、私を師匠にして、自分のあとをつがせる、という様な考えをもっていた訳でもございますまいが、子の私は、見まね、聞き憶《おぼ》えで、四つの年には、もう、春雨なんかを踊っていたそうでございます。そのころから、ずっと、母の手すきには、何かと教わっていたのでございますが、私が母の替りにお弟子さんを取るようになりましたのは、丁度、私が十七の春、とても、気候の不順な年でございましたが、ふとした事から、母が二、三ヶ月|臥《ふせ》った事が、きっかけになったのでございます。それからは母がよくなりましても、お子供衆のお稽
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