ます。汽船は、新しい『別府丸《べっぷまる》』でございました。中桟橋《なかさんばし》に着きますと、船は、もう横づけになっております。切符の用意はしてございましたので、私達はすぐ船に乗ったのでございます。ところが、船の入口で、御隠居さまは、お知り合いの方にお逢いになったのでございました。背広服を着た、いかめしい、お方で御座いました。御隠居さまは、丁寧に御挨拶をなさいました。私も、軽く会釈をいたしましたが、お話の邪魔をするのは失礼と存じまして、少し離れて立っておりました。男の方のお声は少しも聞きとれませんでしたが、御隠居さまの、
「……しばらく、別府で保養をいたしたいと存じます。千代もつれまして」
と、言っていられるのが、かすかに、聞きとれたのでございました。私は、その方の事は、何もお訊《たず》ねいたしませんでした。勿論《もちろん》、そうした事は失礼と、存じていたからでございます。しかし、
「千代を連れまして」
と言われた言葉が気になりましたので、それとなく、お聞きいたしますと、御隠居は、笑いながら、
「いいえ、違いますよ、お師匠のお話をいたしまして、千代と思って、お連れ申して行く、とお話いたしていたのでございます。実はあれは、親戚にあたる者でございまして、私の姪に、師匠ほどな手頃の、千代という娘のあった事を知っているのでございます」
と、こう申されたのでございました。それから、幾度《いくたび》も、あの千代が生きていましたら、ほんとに師匠ほどでございます。そういたしましたら、私も生き甲斐《がい》があるのでございますが、三年前に死にましてからは、ほんとに、世を味気《あじき》なく暮して参りました。しかし師匠にお稽古して頂く様になりましてからは、すっかり、この世が明るくなった様に感じまして、自分ながらに、大変、喜んでおります。と、こんなことを申されたのでございます。
温泉宿の生活と申しますれば、どこでも、そうでございましょうが私たちも、ただ、御飯をいただいて、お湯に入ることだけが、一日の仕事でございました。もっとも、日の光が、お部屋いっぱいに差しこむ、うららかな朝、かおりの高い、いで湯に、ほてった身体を宿のお部屋着につつんで、ほっとしています時など、伯母さまは、よく、
「では、千代ちゃん。何か、おさらいして頂きましょう」
と、いつも、きまったように、春雨か、または御所車を弾きまして、御隠居さまは、小さな声でおうたいになりながら、
「ねえ、千代ちゃん、あなたに教わって、すっかり上手になったでございましょう」
と、静かに、お笑いになるのでございました。
御隠居さまは、いつも私を、千代ちゃん、千代ちゃんと、それはそれは、親身の伯母であっても、こうまではいって下さるまい、してくださるまい、と思うほど、私を大切にして下さいました。私も心から伯母さまと呼びまして、部屋の女中までが、
「ほんに、お睦《むつま》じいことで、お羨ましく存じます」
と、一度ならず、二度までも、私達を前にして、さも、うらやましげに、申した程でございました。
四
私たちのお部屋は、静かな離れ座敷でございまして、三方には中庭を控え、夜なぞ、本館の方から洩れてくる部屋部屋の火影《ほかげ》が、植込の間にちらちらと見えるかと思えば、庭の木立の上からは、まっ白いお月さまが、そっと、のぞき込むのでございました。――のぞきこむ、と申しますれば、私たちのお部屋は、いま申しましたように、ほとんど中庭にあるのでございますから、お部屋の障子《しょうじ》を明けておりますれば、時折、お庭掃除の男衆が、箒《ほうき》や熊手などを手に、そっと頭を下げて通りすぎるようなことは、別に不思議でもないのでございますが、そうした下男のお一人に、いかにも、何か目的あるかのように、そっと、お部屋をのぞいては通りすぎるお方があったのでございます。顔をなるべく、見せないようにしていられますものの、どこかでお目にかかったような気がいたしまして仕方なかったのでございました。
「たしかに、どこかでお目にかかった方」
私は、かように、考えつづけて、おりましたが、ふと、思い出すと、
「おお、そう」
と、御隠居さまの方に向き直り、声を低めて、
「伯母さま。今、通って行きました、男衆に、お気づきになりましたか、あの人は、私たちが、出帆《しゅっぱん》いたします時、伯母さまと話していられた、ご親類の方に、そっくりでございます」
と、こんなに申しまして、口の中で、いくら似ているとは言え、あれほど、似ている方があろうことか、と独白いたしました。が、それと同時に、長い間、すっかり忘れておりました、あの私自身の姿を思い出しまして、思わず、ぞっとしたのでございました。御隠居は、
「そうでございますか、そんなに、あの
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