は反対になりまして、天井から、足もとまでがずっと、がらすの窓になり、そこを透して、ほど遠からぬ港の船のいくつかが、段階子《だんばしご》を降りて行く目の前に、朧《おぼろ》げながら浮んでくるのでございます。窓の向うには、なおも、魔物のような濃霧が、濛々《もうもう》と、何かしら不可思議なものとともに、流れて行くようでございます。漠然《ばくぜん》とした不気味《ぶきみ》さに小さな慄《ふる》えを感じながら、私は階段を静かに降りていたのでございました。と、七階から六階へ通じるところでございましたか、誰も人影はございません。階段の半分を降りきった、折り返しのところで、突然、下から、音もなく昇って来られた方と、危うく衝突する様になって、立ち佇《どま》ったのでございます。そして、ふと、対手《あいて》の方を見上げたのでございますが、その瞬間、われにもあらず、あっと、口の中で叫んだのでございました。それと、申しますのも対手は誰でもございません。私――ええ、間違いなく、私ではございませんか……。

 かようなことを申しますと、何を阿房《あほう》なことを、どうして、お前の他に、お前さんがありましょう。それは、他人のそら似というもの――と、お笑いになるかも存じません。それは、世間には、よく似た方がございましょう――私によく似たお方も、また、私が似ている方もおありになるでございましょう。しかし、似たと言うのは、あの場合、決して、正しい言葉ではございません。まさしく私が朝《あした》に夕《ゆうべ》に、鏡の中で見なれている、私自身に、相違ないではございませんか。私は、その瞬間、ぞっとして、背筋を冷たいものが走った様に感じたのでございます――瘧《おこり》の発作《ほっさ》にでもとらわれたような慄《ふる》えを感じて参りました。私でない私、そうしたもので、どうして、目に見えたのでございましょう。窓の向うには、『おりえんたる・ほてる』でございますか、巨大な、白亜の建物が、霧の海を背景に、朧げに浮んでおります。魔物のような濃霧は、窓がらすの上を這うように流れております。何か不思議なものが、いまさらのように、その中に見えるようでございます。そうした神秘的な、不気味な霧が、私の頭をかき乱していたのでもございましょうか。漠とした、しかし、たえ難いまでの恐怖におののき、烈《はげ》しく鼓動する胸を抱きながら、大きく目を見張っ
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