《ていちょう》に訪れて来られた方がございました。年の頃は五二、三、着物の好みは、あくまで、渋い、おかしがたい気品あるうちにも、何かしら昔を思わせる色と香のまだ消えやらぬ、どこか大家の御隠居さま、と感じられるお方でございました。
「御都合がおよろしい様でございましたら、しばらく、お稽古して頂きたいと存じますが」
と、かように申されたのでございます。私にいたしましては、もとより、異存《いぞん》のある筈はございません。
「お稽古と申しましても、ほんの、お子供衆のお手ほどき、それでもおよろしい様でございますれば」
と、お受けしたのでございました。私は最初の内、そうした身分の方でございますれば、わざわざ私たちの様なところへお越しになるのも、不審といえば、不審なこと、何故にまた、お宅へ名ある師匠をお呼びよせにはならないのであろう、と考えたのでございました。しかし、段々と、お話を承《うけたま》わっていますと、それにも道理のあること、と合点《がてん》したのでございます。この方は、私が最初に推量いたしましたように、名ある資産家の御隠居さまでございました。お宅は芦屋《あしや》の浜にございましたが、お若い時からの、ご陽気すぎ、それも、奥様、ご寮人《りょうにん》さまで、下男、下女にかしずかれていられる間は、下の者の手前、こうしたお稽古ごとなぞ思いもよらぬことでございましたもの、御隠居さまで、御自由なお身体になられますと、時間の御都合もでき、せめてもの楽しみに、と、お買物の風を装われては、街までお出ましになり、それも、名のある師匠ではお知合いのお方にお会いになるけねんもございますこととて、わざと、ああした旧家町。私たちの様な、お稽古所へ尋ねて来られたのでございました。ところが、
「では、そちらさまのご都合が、およろしいようでもございましたら、お稽古は今日からでもいたしましょう」
と、申しまして、
「唄をなさいますか、それとも、踊りのお稽古でございましょうか」
と、お伺いいたしますと、
「唄を、どうぞ」
と申されたのでございます。お年寄り衆でございますれば、大抵《たいてい》は踊りか、さもなくば、三味線のお稽古をなさるものでございますので、こうしたお言葉に、私は、少し意外に感じたのでございました。それで、
「唄でございますね」
と、念を押し、
「何か、ご注文でも……」
と、重ねて、
前へ
次へ
全14ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
酒井 嘉七 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング