きっ、と睨みつけていた、というではございませぬか。――そうすれば、あの親猿が、畜生ながらにも、機会を得て、工《たくら》み、そして、決行した殺人事件ではございますまいか。
私の、こうした推理は、もちろん、物的な証拠によるものではございませぬ。しかし、この、あまりにも因果的とも考えられる、謎の解決にも、決して、根拠のないことではございませぬ。――あの芝居小屋附近の、さるお茶屋に飼ってあった、年へた猿が、殺人事件の当日に逃げたまま行方不明になっているのでございます。こうした事実と、あの殺人の情況とを考えますとき、私のそうした推察も、決して、夢幻的ではない――と考えられないでございましょうか。ご記憶になりますように、あの芝居小屋の裏手入口には、楽屋番の老人が、見張していたのでございます。そうすれば、外部から侵入したものがあるといたしましても、その犯人は、撥のあった楽屋への、唯一の通路――つまり、小屋の裏道に面した、楽屋の窓の、鉄の格子を通りぬけることが出来るもの――
撥を手にしたまま、舞台の天井まで昇ることが出来るもの――
そして、綱をつたって降り、鐘の頂上にある空気ぬきから、内部に入ることができるもの――
手にした撥を、投げつけることが出来るもの――
と、かように考えねばならないでございましょう。そうすれば、当時から行方が分らなくなった猿と、この殺人事件とを結びつけることに、さした不合理もないではございますまいか。それに、この犯人[#「犯人」に傍点]が、子を殺された親猿といたしますれば、色々と、合点のいく節があるではございませぬか。後見をなさっていた、名見崎東三郎さまの陳述にもございました様に、あの
※[#歌記号、1−3−28]|真如《しんにょ》の月を眺め明かさん
のところで、手にした中啓で金烏帽子を跳ね上げた後に、岩井半四郎が、
「綱に……綱に……」
と、申されたと、いうでございましょう。これを後見の名見崎さまは、烏帽子を綱にかけよ、との意味に解釈いたされたのでございますが、この時には、撥を手にした猿が、綱を渡って、造りものの鐘に近よっていたのではございますまいか。しかし、姿はすっかり、天井からたれ下った、しだれ桜の幕にかくれて、見物席からは見えなかったのでございましょう。それに、役者衆から、鳴物の御連中、舞台裏の方々までこの日本一の踊りを見んものと、総ての目は岩井半四郎の白拍子に注がれていたのでございましょう。引抜きの時にも、半四郎は、手でまるめた糸屑を、後見に渡さず、踊りの手にまぎらせて、天井に向って投げた、と申すではございませんか。それに、
「……何か、ご見物衆のことで、気にいらぬことでもあったのか、口の中で、呟くように、畜生、畜生と云われました」
と、かようなことも、申していらっしゃるではございませんか。その呟き声は、疑いもなく、猿に向って発せられたものでございましょう。――それに、後見の、名見崎東三郎さまの陳述によれば、
唄がすすむにつれて、異常に興奮し、
物の怪につかれた人の譫言のように、綱に、綱に、と独白された――というではございませぬか。
じっと、おとなしく、綱にすがっている猿でございますれば、半四郎が手にした糸屑を、踊りながら、投げる必要が、どうしてございましょう。
その猿は、きっと、怒の形相ものすごく、じっと、半四郎を睨みつけていたのでございますまいか――無残に、殺された、我がいとし子の小猿の無念を思いながら。
[#地付き](一九三七年六月)
底本:「幻の探偵雑誌4 「探偵春秋」傑作選」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年1月20日初版1刷発行
初出:「探偵春秋 第二巻第六号」春秋社
1937(昭和12)年6月1日
入力:川山隆
校正:土屋隆
2006年10月17日作成
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