一のお弟子さまの新三郎さまのお部屋が並んでいたのでございます。それがために、楽屋口から、はいった者が無くとも、この方々のお部屋の窓から、誰か忍び入ったのではあるまいか、とお上の方々も、お考えになったのでございますが、もし、そうとすれば、梯子のようなものでも、使用いたしませねば、絶対に不可能でございますし、そうした物を使わずに、窓のそばに近よることが出来たといたしましても、杵屋新三郎さまが陳述の節に申されましたように、窓には、鉄の棒がはめてありますので、とても、頭さえも、はいらないのでございます。
 こんな事情でございますので、もし、誰かが、あの撥を新三郎さまのお部屋から持ち出したとすれば、それは、一座に関係のある、内部の方に相違ございませぬ――決して、外から這入ったものの仕業ではございませぬ。しかし、それにいたしましても、造りものの鐘で、すっぽりと、覆われている、岩井半四郎さまを、どうして傷つけたのでございましょう。楽屋番の、この親爺には、たとえ切支丹伴天連《きりしたんばてれん》の法をわきまえている毛唐人にも、出来そうな事には思えませぬ」

        |○|[#「|○|」は縦中横]

 ※[#歌記号、1−3−28]恋の手習つい見習いて、誰に見せよとて、紅鉄漿《べにかね》つけよぞ
 ……道成寺の唄の文句の中でも、いちばん人に知られたところでございましょう。――誰に見せよとて、いえ、誰に喜んでいただきましょうとて、私があの殺人事件の研究を初めましたものでございましょう。口さがない、私どもの連中さまたちが、私に向ってさえ、はっきりと申されましたように、この私がお師匠さまをお慕いいたしていたからでございましょうか。いえ、さようではございませぬ。しかし、そうとは申しますものの、あの唯一の物的証拠象牙の撥のもち主、お師匠さまを、あらぬ嫌疑からお救い申すこともできれば、と考えたことが原因していたのはいうまでもないことでございましょう。
 警察の方々は、最初から、あの事件を、巧妙に計画された殺人事件――というようにお考えなされていたようでございます。しかし、殺人事件とも考え得るような、人の死に出会いました場合、次のような(あり得べき情況)のいくつかを考えて見る必要がございますまいか。つまり――
(一)被害者の自己殺人。自殺ではございますものの、時として、殺人を装うたものがございましょう。岩井半四郎の場合でございますれば、誰かに殺害された風を装うた、自己殺人かも知れないでございましょう。
(二)自然的な理由による死。造りものの鐘の内部をささえている木片が、はずれた。それが岩井半四郎の前額部に致命的な傷をあたえたというような結果の死。
(三)人為的な過失による致死。白拍子に扮した岩井半四郎が、造りものの鐘の中へはいり切らぬうちに、道具方が、鐘を下した。内部の一端が、半四郎の前額部に激突し、被害者を死にいたらしめた――という類。
(四)非計画的な殺人。常日頃から、半四郎に対して、殺意を抱いている。が、何の殺人計画も講じていない。――または、突発的な理由のために、殺意を生じた。殺人の計画もない。しかし、いまが機会だ――兇器は何でもよい。そこら辺りにあるものを取りあげて……と、いう風に決行された殺人。
(五)計画された殺人事件。綿密な計画と、周到な用意で、機械を組み立てるように準備された殺人計画。総ては、整った。今こそ――と、いうように感じられる殺人方法。

 こうした、種々な、殺人事件の場合が考えられるでございましょう。そうすれば、いまも、申しましたように、殺人事件と考えられるような、人の死に出逢いました場合、それが、右の内のどれにあたるであろうか――と、かように考えることも、無駄ではございますまい。概略的な、そして、漠然とした分類のいたしかたではございますものの、これらのうち何れかの範疇に入らぬ殺人事件はございますまい。では、この河原崎座の殺人事件は、このうちの何れに属するものでございましょう。――まず、
(一)の被害者の自己殺人――これにあたりはいたしますまいか。いえ、決して、そうとは考えられないでございましょう。若し、あの撥をわれとわが頭に打ちつけたといたしますれば、あの撥はどうして手に入れたのでございましょう。半四郎は、師匠のいられた楽屋附近へは、幕あきの前に近よっていません。そうすれば、あの撥が半四郎の手に渡る筈がないではございませぬか。
 そうすれば、(二)に記しましたような、自然的な理由による死でございましょうか。いえ、そうでも御座いますまい。撥が、上から、ひとりでに、落ちて来たのではあるまいか、という様に考えるといたしましても、それには、撥に羽が生えて、独りでに、楽屋から飛んで来、舞台の上に吊されている鐘の中にはいっていた――と
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
酒井 嘉七 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング