新三郎さんは、師匠の撥をご自分のお部屋に運ばれたため[#「運ばれたため」は底本では「運ばれたたため」]――言葉をかえて申しますと、殺人に使用された兇器を、最後に手にしていられた方であるため、
 そして、
(は)の名見崎東三郎さまは、岩井半四郎の後見として、被害者に、誰よりも一番近く位置していたため――でございましょう。

 しかし、それにいたしましても、もし、このお三方を、幾分でも、疑いの目をもって見るといたしますれば、その当時舞台の上で、演奏されていた、唄の方々、三味線を弾いていられた方々、そして、所作の舞台にいられた、役者の方々も同じように、お疑い申さねばなりますまい――いや、その上に、あの時、河原崎座の中にいられた、千にも近い、見物衆をも、同じほどに、お疑いいたさねばなりますまい。
 あの殺人は、間口十五間の檜舞台の真中に伏せられた、造りものの鐘の中で行われたので御座います。その、造りものの鐘の外部にさえ、手を触れた方は、誰人《だれ》もいないのでございます。幕のあいた最初から、殺人の発見まで、
(い)の新次師匠は十二三間も、
(ろ)の新三郎さまは四五間も、
(は)の名見崎東三郎さまは、後見でございますから、比較的接近していられましたものの、一間あまりは、最後に、鐘が上りますまで、ずっと、離れていらっしたのでございます。そういたしますれば、いまも、申しましたように――このお三方に嫌疑がかかるとすれば――あの造りものの鐘から、近くは、五六間、遠くて、十間から二十間も離れずに、この絢爛たる踊りの舞台をご見物になっていた、観客の方々にも、同じ程度の嫌疑を、おかけするのが当然でございましょう。しかし、それにいたしましても、衆人環視の、歌舞伎の舞台でそれも、造りものの鐘の中で、姿なき者の手によって遂行されて殺人現場に残された物的証拠は、象牙の撥、ただの一本。と、かように申しますれば、この事件が、いまだ、はっきりと解決されずに残されているのも、故あることとお考えになるでございましょう。

        |○|[#「|○|」は縦中横]

 その筋の方々も、この事件には、すっかり、お困りになったご様子でございました。一座の方々、長唄、鳴物、囃子のご連中から、道具方の皆様がたまで、ひと通りのお取調べがあったようでございまして、そのはてには、楽屋の入口で、下足番のような仕事をいた
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