たといたしましても、鐘から人の目にかからぬように、出る術もございますまい。――鐘がつりあげられる時、鐘の内部につかまっていた、といたしましても、それでは、舞台の上に引き上げられた鐘の中からどうして逃げ去ることが出来ましょう。
 このように申しますと、それでは、鐘の伏さっていた舞台に、奈落へ抜けるすっぽん[#「すっぽん」に傍点]があったのではあるまいか。鐘が舞台に下りると、犯人は、そこから、鐘の内部にせり上り、再び、奈落へ逃げ去ったのではあるまいか。――と、仰せになるかも存じませぬ。しかし、今も申しましたように、半四郎が変化の扮装をなさるのは、鐘の中でございましたので、鐘をすっぽん[#「すっぽん」に傍点]の上に降ろす必要もなく、ずっと離れた、舞台の中央に近いところに、降ろされていたのでございます。従って、犯人が奈落から侵入したとも考えられないのでございます。
 いま申し述べました情況の一切は、一座の人達や、道具の方々によく、分っておりましたので、半四郎の身体が、楽屋に運ばれ、ほっと、一と息つくと、舞台に残った人々は、期せずして、鐘の中が怪しい――と、いうように感じたのでございましょう。じっと、舞台の天井に、つり上げられた、造りものの鐘を見上げていたのでございますが、やがては、大道具の一人が、静かに、舞台の上に降ろし、二三人の手で、内部の検証が初まったのでございます。これは、事件後、ものの五分と過ぎない時でございました。しかし、鐘の内部は、何の変ったこともなく、人の姿など、勿論、ございません。これは鐘を下すまでもなく、舞台から見上げた時にも分っていたことでございます。人々は、鐘の内部にしつらえられた棚の上や、隈どりに使用した化粧品までも、たんねんに、手にとって、調べて見たのでございますが、何のこともございません。

 こうした事情でございましたので、事件を解決するには、現場に残された兇器つまり、半四郎が受けた、前額部の外傷に、直接の関係があると考えられる物体――に、総ての人の注意がむけられたのも当然のことでございましょう。この兇器こそ、ほかでもございませぬ、私の師匠、杵屋新次さまの象牙の撥――それも開幕前には、師匠が楽屋で、手にしていらっしたものなのでございます。これは、お弟子さまがたも申され、師匠ご自身も認めていらっしゃることでございますが、これが、鐘をつり上げました
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