に、次の様なことが記されて御座います。

「(長唄)江戸歌舞伎の、劇場音楽として発達したものである。創始者は明確でないが、貞享《じょうきょう》、元禄《げんろく》年間に、上方から江戸へ下って来た、三味線音楽家、杵屋一家の人々が、歌舞伎の伴奏に用いた上方唄が、いつしか、江戸前に変化し、その基礎をなしたことに疑いはない。……江戸長唄なる称呼が、判然と芝居番附に掲げられたのは、宝永《ほうえい》元年のことである」

 しかし、これは、劇場音楽としての長唄でございますが、私たちがお稽古をいたしておりますものは、たとえ、歌詞や曲が全然、同じではございますものの、完全に独立した、家庭音楽としての長唄なのでございます。百科全書にも、この劇場から独立した長唄について、次の様な附記がございます。

「(家庭音楽としての長唄)明治三十五年の八月に『長唄研究会』が創立された。その目標とするところは、劇場から独立した長唄――芝居や所作事または、舞踊、等に拘束されぬ、聴くべき音楽としての長唄――研究であって、創立以後、演奏回数五百有余に及び、長唄の趣味好尚を、広く、各階級、各家庭に普《あま》ねからしめた」

 こうした過程を経まして、今日では、地唄《じうた》、歌沢《うたざわ》、端唄《はうた》と同じ様に、純然たる家庭音楽になっているのでございます。しかし、そうは申しますものの、唯今の様に普及される迄には相当に、生れ出ずる悩みがあった様でございます。その第一は、長唄のあるものは、とても美しく唄っては御座いますものの、随分と、そうでない個所があった様でございます。例えば、伊勢音頭にいたしましても、こうした一節がございます。
 ※[#歌記号、1−3−28]流れの泉色も香も愛《めで》給わればいそいそと花に習うてちらりとそこに情の通う若たちの心任せに紐ときて上の下のととる手も狂うヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ
 ※[#歌記号、1−3−28]豊な御代に相逢はこれぞあたいのなき宝露もこぼさずすなおなる竹の葉影に組重ねあかぬ契りのあかしにはあけの唇ぬっくりと月花みゆきひとのみに傾け捧げ乱れざしヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ

 それに、作詞家の間違いか、それとも、唄本の版元が飜刻《ほんこく》の際に過ったものが、そのまま、後世に伝りましたものか、時として、唄の意味が通じなかったり、とても変な場合があるのでございます
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