劇藝術の必然といわねばなるまい。要するに同じ松でもその松は別個の松である。同じ「大菩薩峠」の机龍之助でも、これは私の演劇術によつて創作された別の机龍之助である。言わば私は、松の木の有するあるよさ[#「よさ」に傍点]を選んだのである。
そして別に畑の異う舞臺の上の松を創造したのである。自然そこには私獨自なるものがある。從つて、私の謂う「机龍之助」は、原作者が恐れる訪問作者の筆や、映畫の上に剽盜さることを憂うることは少しもないものである。
例えば何人が眞似ようと、何人が改作しようと、嚴として獨自の存在性を持して保ち得る私の藝「机龍之助」なのである。
そこで、私が私の戀する「机龍之助」を批評する――これは甚だ困難なことになる。それは、とりもなおさず、私自身の創作を發表し、辯護することになる。これではどうしても批評にはならない。たゞ一と口、強いて云えば、それは難かしい法樂とか、悟道とか、そういう言葉ではなく、はなしに即してベストの効果を期してなされた私の藝術的法悦――即ち眞演劇的なる藝術に即してベストの効果を期してなされた私の創作、これ以外多くを語る氣持にはなれない。と云つて、私の胸から
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