探偵小説アルセーヌ・ルパン
EDITH AU COU DE CYGNE
モーリス・ルブラン Maurice Leblanc
婦人文化研究会訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)著《つ》いた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|灯《あかり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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一
今から三年前のことである。ブレスト発の列車がレンヌ駅に著《つ》いた時、その一貨車の扉の破壊されているのが見出だされた。この貨車はブレジリアの富豪スパルミエント大佐の借切ったもので、中には綴《つづ》れ錦の壁布を入れた箱がいくつも積込まれていたが、箱の一つは破られて、中の錦の一枚がなくなっていた。
スパルミエント大佐は、夫人と一緒に同じ列車に乗っていたが、これを知ると、鉄道会社に談判を持ち込んで、一枚が盗まれても他の物の値打まで非常に下《さが》るからとて、莫大の損害賠償を請求した。
問題は起った。警察は犯人の捜索に主力を集中した。鉄道会社でも少なからぬ懸賞金を投じてこれに声援した。
この騒ぎの真中の警視庁へ、一通の手紙がまい込んだ。開いてみると、今回の窃盗事件はアルセーヌ・ルパンの指揮の下に行われ、贓品《ぞうひん》は翌[#「翌」は底本では「習」]日北アメリカへ向けて送られた。という文面である。警視庁は俄《にわか》に活動を進めた。同夜サンラザール停車塲で、一刑事のために彼の錦が一行李の中から発見された。
この窃盗はルパンの失敗に終った。
これを聞いたルパンは怒り絶頂に達して、直ちに筆を取って、スパルミエント大佐に一書を送った。それにはこう書いてあった。
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先日はただ一枚のみ頂戴しました。その時は一枚だけでよかったのですが、それをかく御取戻しになるにおいては、小生にも考があります。今度はきっと十二枚全部頂戴いたします。
右前以って御通知まで。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]アルセーヌ・ルパン
二
スパルミエント大佐は、フェイザンドリイ街とジュフレノアイ街の角にある邸宅をかまえた。
大佐は頑丈な体格の持主で、広い肩、黒い髪、また銅色の皮膚も屈強に見えた。夫人はすこぶる美人ではあるが、生来薄柳の質で、この間の壁布の紛失事件の時でもひどく恐れを抱いて、こんな物があるとどんな怖ろしい事になるかもしれないから、いくらでもかまわない、早く手離した方が安心だとしきりに夫に説いたほどであった。が、大佐はなかなか剛情なたちで、女達の弱音ぐらいにへこむ人ではなかった。従って錦は決して売払われはしなかった。でも十二分の用心をして、設備を加えたり、盗難保険に入ったりした。
第一番に、庭の方に向いている、家の正面だけを警戒したら足るようにと、裏の方のジュフレノアイ街に向いた方は、下から上まで、窓も入口もすっかり壁を塗りつぶしてしまった。更に錦の飾られている室《へや》の窓という窓に、秘密の装置を施して、ちょっとでもこれに触れると、家中の電燈が一時《いっとき》にパッとともり、同時に電鈴がけたたましく鳴りひびく仕掛にした。
保険会社の方では、それにもなおあき足らず三人の探偵を選んで、給料は先払とし、夜になると、この邸の階下にあって警戒させた。三人の探偵は経験もあり手練《しゅれん》の刑事で、ルパンを仇敵のように思っている者ばかりであった。
大佐邸の使用人は、長年使いなれてその性質はわかっているので、大佐[#「佐」は底本では「佑」]がこれを保証した。
こうして絶対に盗難の憂をなくするため、ほとんど要塞のように厳重な設備が出来上がったので、大佐はいよいよ邸宅改築の披露を兼ね、自慢のつづれの錦を展観させるべく一夕《いっせき》知己《ちき》を招いた。集まった人々は、大佐の入会しているクラブの会員、婦人、新聞記者、好事家、美術批評家という風に種々雑多な人々であった。
客は門を入るや否や、まるで監獄へでも投げこまれたように思わせられた。階段の下には例の三人の刑事が、仁王立になっていて、するどい眼玉をギロつかせ、いちいち客から招待状を受取り、おまけに迂散《うさん》くさそうにジロジロ顔を見た。ほとんど身体検査をされ、指紋をとられんばかりである。蟻の這入《はい》る隙間もないとはこの事であった。
大佐は二階で客を出迎えて、この仰山な警戒を詫びたり、そして錦の安全を期するためにほとんど万全の策がとられた事を誇ったりした。夫人はさもあきらめ顔に大佐の傍に従っていた。若々しく、美しく、気品があって、房々とした金髪、真白な肌、なよなよとして媚《なま》めかしい中に愁《うれい》を含んだ様子は、まだこのほどの事件の驚きが消え失せぬようであった。
客のすべてが入ってしまうと、門も玄関の戸もぴたりと閉った。そして彼等は扉の二重になっている陳列室に入ることが出来た。部屋の窓には大きな鎧戸がある外に鉄の格子が張ってあった。そして中に十二枚の綴れの錦が陳列されてあった。
錦というのは、ウイリアム征服王に従って来た武士の子孫が、十六世紀の頃アラスの名工エジエハン・ゴセットに織らせたもので、織り出された図は英国征服史である。それが五百年後、英国のある古城から発見されたのである。それを大佐はどうしたものかわずか五万フランで買入れたのだというが、実際の値段は十倍以上もあるものであった。
十二枚の中、一等美しくて立派なものは、かつてルパンに盗まれて、再び取りかえしたものである。それにはウイリアム征服王の軍に踏み破られたハスチングスの民の、累々として積る無残な屍体の中に、エジスが首をさし伸べつつ、愛人チキソン王ハロルトの屍《しかばね》を探している世にも愁《うれ》わしい図が描かれていた。その質朴な美、その色ざめた中にある雅趣、人物の姿は惨憺《さんたん》哀愁人に迫るものがあった。
客はこの名画名技の前に来って、思わずうっとりして我を忘れて感嘆の声を久しゅうした。薄命の王妃エジスの憂れわしい姿は、百合の花が雨に打たれた風情とも見られた。見よ、彼女の白衣はしゅうしゅうと吹き来る風に飜り、歩むも危き脛《すね》もあらわに、空にひろげた細腕にはあらゆる恐怖とあらゆる悲愁の情が刻まれるとも見えた。ああ絶望の微笑をうかべた横顔、それはまことに世にも類いなき哀れさであった。
『何という悲しい微笑でしょう! そして何と[#「と」は底本では欠落]いう美しい微笑でしょう! スパルミエントさん。何だか奥様を思わせるような顔付ではありませんか。』
一批評家はふとこう言った。他の人々はそれを熱心に聞いていた。
『まったくですね。私もすぐそう思いましたよ。あの首筋のしなやかな曲線、その細い手、横顔といい、姿といい、物腰といい、どうも似通っていますね。』
『ハハハハ、そうですかな。実は私がこの壁布を買い求めましたのも、これがよく似ていましたからですよ。いやそればかりではありません。どうも妙な縁で、家内の名もエジスというのです。』
大佐はなお笑いながら、
『でも、何ですね、壁布のエジスと、家内のエジスと似るのは結構ですが、家内が夫の屍体を探すような運命にはなりたくはありませんな。私は死にたくはありませんな。話はこの辺でおしまいにしようじゃありませんか。でも、この壁布が、もし盗られるような事があったら、さア、そうなったら、私も自殺しなければなりませんな。ハハハハハ。』
大佐は大口を開けて笑ったが、[#「、」は底本では「。」]その笑声は決して陽気なものではなかった。この後この夜の事が話題に上った時、人々はこの時の事を思い出して、お互にハタと声を呑んで息を殺したということである。この時の来客は、一人としてこの冗談に答えることが出来なかった。
しばらくして一人がこの不吉な冗談を打消すように、
『でも、スパルミエントさん。あなたはハロルドという名前ではないじゃありませんか。』[#「』」は底本では欠落]と言った。
大佐は快活に、
『そうです。私はハロルドとは言いません。そしてハロルド王に似ている所は少しもないでしょう。だからこの点は安心ですよ。』
と、この大佐の言葉の終るのを待っていたように、窓の方にあって、俄然として一声強くはげしい電鈴が鳴りひびいた。同時にスパルミエント夫人はキャッと叫んで夫の腕に倒れるようにすがりついた。
『どうした? どうした?』と大佐は夫人を抱きしめた。
来客一同も、思わず水を浴びたように固くなって、窓の方を見た。
『どうしたんだろう? どうも怪しい。あのベルの装置を知っているのは私より他にないはずだ!』
と、今度は俄かに電燈が一時にパッと消えて、あたりは真の闇になった。そして下から上まで、部屋々々の電鈴が耳も聾《ろう》せんばかりに一時に鳴り初めた。
一同は、狂人のようになってうろたえさわいだ。逃げ惑った。婦人達は悲鳴をあげて泣きわめき、男達は締めた戸口に折重なり、どんどん戸を叩き押しあいへし合い、我勝に逃げ出ようとして人を突飛ばし、倒れ、踏みつけた。ちょうど狂犬に追われるか、爆弾を投げつけられたような騒ぎであった。
大佐は声をはげまして、その混雑を制しようとした。
『どうぞお静かに、騒がないで下さい‥‥大丈夫です。今|灯《あかり》をつけます。スイッチがここにあるんですから‥‥この隅に‥‥』
大佐は客を掻きわけて陳列室の角に行った。電燈はサッとともった。と、同時に電鈴の音もパッタリと止った。
三
『壁布は?』
『ある!』
誰かが叫んだ。しかし、婦人は二人気絶していた。スパルミエント夫人も失神せんばかりになって、真蒼《まっさお》な顔色をしてぶるぶる震えながら夫の腕にすがりついていた。男達も皆顔色を失ったり、カラーをゆがめたり、ちょうど格闘のあとのような様であった。
それらの人々は、みんなかの錦の壁布の盗まれたものだと思っていたのに、壁布は元のように壁に掛っているのが、何だかおかしいくらいに思えた。
その他にも人間より他に動いたものは何もない。高価な額も無事に掛っている。それにあんなに家中が真暗になったり電鈴が鳴りひびいたりしたけれども、出入を警戒した探偵等には何の異変をも認めることは出来なかった。一人だって外から入った者も無ければ、また入ろうとした者もない。
大佐はようやく愁眉《しゅうび》を開いて、
『ベルの装置は陳列室の窓ばかりですし、それにその仕掛を知っているのは私一人ですがそれを締め直しておかなかったのです。』
来客は声をあげて打笑った。そして誰も今自分等がとった周章狼狽《しゅうしょうろうばい》のありさまを極り悪く思って笑い濁した。でも何だか急に空気が重苦しく感じて、みんな一時も早くこの家を去りたいと思った。
ただ二人の新聞記者だけがあとに残った。大佐は夫人を女中共にあずけた後、この二人の記者と、警戒の探偵三人とで共々に邸内くまなく調べたけれど、怪しい点の何者をも見出すことは出来なかった。そこで大佐はシャンペンを上げた。そして新聞記者は帰って行った。それは夜中の二時四十五分であった。
記者を送り出すと、大佐も寝室に入り、探偵達も例の部屋へ引き取った。でもこの探偵達は部屋に帰っても寝ることは出来ない。夜通しで、庭を見廻ったり、陳列室を覗いてみたりして警戒をせねばならなかった。
しかしこの規定は朝の五時から七時までは睡《ねむ》ってよかった。それは外にはもう日が昇って、もしものことがあっても、電鈴が少しでもひびけば、誰も眼を醒まさぬわけはないからである。
ところが、七時二十一分に、探偵の一人が陳列室の扉を開けて、例のように覗いてみると、壁布が一枚だって無かった。彼は気も遠くならんばかりに仰天した。
あまりの事に周章《うろた》えたか、これを早速大佐には告げないで、すぐに警察へ通知した。ひとまず主人に通知した上で警察へ通知したとて遅いことはない。何もそれがために警察の仕事
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