チン街のドーブレクの邸《やしき》だ、全速力だぞ!』
 彼の自動車の内部は事務室であり、書斎であり、また変装室であるように出来ていて、あらゆる参考図書は固《もと》より、ペン、インキ用箋の文房具、化粧箱、各種の衣服を始めとして、仮髪《かつら》、附鬘《つけかつら》の類から、種々《いろいろ》の装身具小道具まで巧みに隠してあった、彼は自動車の疾走中にいかなる千変万化の変装でも為し得るのであった。
 かくてドーブレクの邸に現れたのが、フロックコートに山高帽、金縁の鼻眼鏡に斑白の顎髯のある頑丈な中年輩の紳士であった。玄関へ出て来たビクトワールは、
『主人はただ今臥っておりますし時刻も夜分でございますから……』と云って何としても取り次ぎそうになかった。
『オイ、いい加減にしろよ。赤ン坊じゃあるまいし。解らんのか。急ぐんだよ!』
『アッ、あなた、あなたですかい!』
『いや、ルイ十六世[#「ルイ十六世」は底本では「イル十六世」]さ、アッハハ……だが乳母《ばあや》は俺が奴と面会している間に、大急ぎで荷物を纒めて、この邸を逃げ出すんだ……なんでもいいから俺の云う通りにしなさい。往来《とおり》に自動車が待たしてあるから、それに乗るんだよ、大急ぎ大急ぎ……』
 彼はベルタ医学博士と名乗ってドーブレクに会い、メルジー夫人の自殺を計った次第を述べた。さすがの代議士もいささか驚いた気味であったが、何事か考えていた。
『何にしろ、夫人が熱のために夢中になって「あの人です、あの人です、……ドーブレク……代議士です……子供を返して下さい……あの人にそう云って下さい……さもなければ私は生きていません……」と申しますので、とにかく、一応あなたに御伺いしたら解ることと思って参りました』
 代議士は長い間沈黙していたが、突然、「ちょっと失礼します」と云って電話機を取り上げた。
『モシモシ……モシモシ八二二・一九番……』
 ルパンは微笑した。
『モシモシ、警視庁?……ええ官房主事のプラスビイユさんに願ます……私?私はドーブレク、代議士のドーブレクです……やあプラスビイユ君か?……え、なんだい、驚いたって?……ああ、全くだ、長い間御無沙汰したね……だがお互に心の中じゃ始終忘れっこなしさ……それに君や、君の部下の連中がたびたび留守中に訪ねて来てくれたってね……モシモシ、え? 忙しい?、……俺も忙しいよ。……ところで、だ
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