ョン・ハワード商会に註文した時、見本として送って来た品に過ぎないのでございます。』
 もしこの時、夫人の深刻な悲痛の顔が、彼の眼の前になかったならば、ルパンは、この運命の悪戯による痛烈な皮肉に対して哄笑を禁じ得なかったであろう。
 彼女はハワード商会に手を入れて、栓の突端に微かな傷のあるのが見本だと云う事まで取調べていた。そして、見本の栓を奪う事によって、ドーブレクのために目的を感付かれては万事休するので、ジャックを使ってドーブレクの手元へ人知れず隠したのであった。
 ルパンが出現してドーブレクの邸内に潜み出してから、彼女の活動はルパンが怖ろしくて手も足も出せなくなった。そのために例の手紙や、また劇場に来てはならないなどと云う電報をも打ったのであった。のみならず彼女は一度彼を訪問した。そして一切を打開けてその助力を乞おうとした。しかし……
『しかし、あの時にはジルベールの手紙を横取せましたね。だがジャック君ではなかったはずですが……フム、自動車の中に待たしてあったのを、窓から引き入れた?……そうでしょう、そうでもしなければあの手紙が奪れる訳ではないですから、で手紙の内容は?』
『ジルベールは大層、あなたを怨んで、仕事を奪ったばかりでなく、部下を見殺しにするとは余りだと書いてございましたので私も半信半疑の心持になって、とうとう逃げ出してしまいました……』
 その後彼女がジルベールを救出すには最後にただ一ツの方法しか遺らなかったのである。彼女はドーブレクが執念、蛇の如き欲求を入れなければならないのだ、その欲求を入れれば……ジルベールは助かる。しかし、夫の仇、倶に天を戴き得ない深讐綿々たる怨の敵……とは云え、繊弱《かよわ》い女の身として、一ツには我児の愛に惹かされて、今後あるいは身を殺して仇のために左右せられんともかぎらない。……思えば呪の運命に弄れた不幸な彼女、その愁《うれい》に沈む夫人の心情、人として何人かこれを目前に見て看過し得よう。いわんや侠気自ら許すルパンである。彼の眼底に同情の涙が湧くと同時に、その眼光に、正義の光が物凄く輝き出した。
『よくお聴きなさい。私はあなたに誓ってジルベールを救います……私はあなたに誓う……ジルベールは決して殺させない!解りましたか……この私の眼の黒い間は、天下いかなる権力者たりとも、断じてジルベールの頭に指一本でも触れさせません……
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