時の間にか散佚に歸したのであらう。幸にこの目録がある爲め、唐でも當時の官學以外に獨創の見を有した少數の學者が居て、趙匡啖助のみ其名を擅にする譯にいかぬ事が分るのは、全く此書の御蔭である。
第三此書に就いて注意すべきは唐の學風と我國の學風が同一であつて、書籍の存佚も大體に於て相同じと云ふ事である。即ち此書を見ると、唐で正義を作つた漢魏注家以外の經書も多く傳來して居た。例へば易尚書論語に於て鄭玄の注、又左傳に於て賈逵服虔の注などもある。これは唐でも同じ事で、唐の代では縱ひ正義で易に王弼、尚書に孔安國、論語に何晏、左傳に杜預を取つても、穴勝其他を排斥した譯でない。又大寶の學令にも、凡教授正業。周易鄭玄王弼注。尚書孔安國鄭玄注。左傳服虔杜預注。論語鄭玄何晏注。云々とあつて其解に「謂非[#三]是一人兼習[#二]二家[#一]或鄭或王習[#二]其一注[#一]若有[#二]兼通者[#一]既是爲[#二]博達[#一]也」とある。結局注家のうちに就いて、其一を選べばよろしかつたのである。この制度も全く唐を眞似たものであつて、唐の學制も其通りである([#ここから割り注]唐六典卷二十一[#ここで割り注終わり])。然るに、規則はかうであつても、學生の方から云へば、已に正義と云ふ立派なものがあるから、態々艱深な鄭賈等の注によつて本文を研究するには及ばぬ。一體唐は詩賦文章の時代で、經學の如き肩の凝るものは嫌ひであつた。つまり經書を讀むも試驗に及第して官途に出るのが目的であるから、分り易くなつて居る正義を通じて一通り心得てさへ居ればよいので、其以外のものは餘程世間と遠ざかつた變りものでなくては研究せなかつた。そんな具合で唐の時には、其書はあつても、後に亡んで仕舞つたものが多い。我國とても全くさうであつて、唐人さへやらないものを誰れが心血を注いで研究などをしよう、それよりも詩歌管弦の方が餘程面白かつたのである。それであるから我國でも正義以外の經書は人の讀むものなく、信西入道藏書目録などになると殆んど此等の書を載せて居ない。結局其時分には已に散佚した事が分る。又藤原頼長の如きは當時博覽を以て稱せられ、學問にも餘程骨を折つた人で、台記を見ると一一その讀んだ書名が載せてあるが、幾んど正義の範圍を出ない。結局この時代には已に前に述べたる正義以外のものはなかつた事が分る。換言すれば彼に流行するものは亦我にも流行し彼に散佚したものは亦我にも散佚する。書籍の運命さへ兩者同一である。つまり唐の學問や學制を採用したから、其結果も同樣であつたことが分つて、中々面白いのである。第四の點は前に述べた事と、少々矛盾する樣ではあるが、或書籍によると彼に散佚したものが我に殘つてゐるものがある。それは流行不流行の論でなく、我國では支那の如く兵火の厄があつても、比較的慘劇でないから、縉紳の家とか佛刹などに傳へられた珍籍が多い、これは申す迄もなき事なるが、結局これを研究するには佐世の書目が必要となつて來る。如何となればこれによつて或書が早く我國に傳つて居たと云ふ事を證明するからである。近來支那の學者間に此書を矢釜敷云ふ樣になつたのもこれからである。
予が述べたのは、結局この書目は本の一小册子に過ぎないけれども、經籍研究の上今尚實用をなすこと多きと同時に、王朝に於ける漢學が如何なる状態であつたかと云ふ事が分る。見樣によつては中々面白いもので、唯書名を羅列した乾燥無味の目録書の比ではない。猶此中にある書名につき、これを隋唐志に考へ其の存佚を覈にし、漢書藝文志考證若しくは隋書經籍志考證と同樣の書を作る人があつたら其學術に稗益する[#「稗益する」はママ]ことは決して鮮少でないと思ふのである。
[#地から1字上げ](明治四十三年四月、藝文第一年第一號)
底本:「支那學文藪」みすず書房
1973(昭和48)年4月2日発行
底本の親本:「支那學文藪」弘文堂
1927(昭和2)年
初出:「藝文 第一年第一號」
1910(明治43)年4月
※底本巻末の補注には、「…「鄭賈等の注によつて」とあるが、此の文脈では鄭服に作るがよいであろう」とあります。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2009年7月8日作成
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