れて來たと慨嘆して居る人があります。夫から子供が親の言ふことを聽かない、弟が兄の言ふことを聽かぬと云ふやうなことは昔よりは非常に薄弱になつた。此點に於きまして心ある人は大變に心配をして居るのでありますが、此の心配をいたすことは當局者の間にも隨分心配をして居る人もあるし、また民間の人にも隨分あるのであります。私が昨年北京へ參りました時に向ふの教育部、即ち此方で申しまする文部省でありますが、文部の次官で會ひたいと云ふ人に一寸會ひましたのでありますが、將來此の道徳教育と云ふものは何う云ふ風にやつたら宜からうかと云ふやうな話もありました。
支那人心が段々動搖をして居るに就ては之を維持して支那の國民の道徳を保つて行くかと云ふ問題であります。之に就ては矢張り支那人の考でありますと、矢張り支那在來の道徳或は宗教と云ふやうなものを無くしては何うしても支那人には適合しない。何が一番都合が好いかと申しますると、矢張り儒教と云ふことになるのであります。それで斯う云ふ工合でありまして、此頃は儒教の復興と云ふやうなことを唱へる人が隨分多いのであります。尤も然う云ふことを唱へる人には色々種類がありまして、昔の老儒とか云ふやうなものは昔の學問はえらい、何うしても之を保存して行かなければならぬと云ふやうな考の人もあります。夫から中には日本や亞米利加等に參つて西洋の教育も受け、夫から支那の教育も受けて居る者がです、何うしても此の支那を盛んにするには保存と云ふよりも寧ろ儒教の精神を發揮して大いに是で以て支那を盛んにしなければならぬと云ふ人も隨分あるのであります。
ところで先年以來共和政體が出來まして、果してその政體が儒教と一致調和することが出來るか何うであるかと云ふ問題が起るのでありますが、儒教は專政時代の遺物である、今日共和時代になつた以上此の儒教は全く無用なものであると云ふ論者も隨分あるのであります。
支那には御承知の通り文廟、即ち春秋に孔子を祀る所が各府州縣にあります。それが此頃は段々問題となつて文廟を毀してしまふとか、それに附いて居る田地を沒收することが始まり懸けたので、之に對して儒教復興の連中は躍氣になつて今騷いで居るのであります。丁度私が昨年北京に參りました時には是等の連中が集つて久しく廢されて居つた所の釋奠即ち孔子祭をやりました。私も案内を受けまして其のお祭りに參列致しました。衆議
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