關する勅語を一覽しても直ぐに分るのであります。
 ところで此度の革命と申しまするものは之と全く違つたものであります。革命の結果として共和政府が出來ました。で是は支那歴史あつて以來最初の事であるのでありますが、勿論支那でも周の世に一時共和の政が行はれたと云ふことは史記や何かに見えて居る。「周の※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]王の時王※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1−84−28]にあり王位を同うする十四年共和といふ」と云ふことが見えて居ります。斯くの如き共和[#「共和」に丸傍点]の文字は史記に見えて居るけれども、實際に於て今日亞米利加合衆國とか或は佛蘭西共和國を模型といたして作つた所の支那の共和政府とは全く關係のないことであります。此の政體が支那の從來の政體と違つたと云ふことは、是れは謂ふまでもなく西洋の思想を受けて斯う云ふ政體が出來たものであります。斯う云ふ政體の變動と云ふことは誠に非常な變動でありますが、是は詰り此の一部の支那人にありての思想の變動である。政體に關する變動と云ふことはたゞ其の一端に過ぎないのでありまして、從來儒教などで執り來つた所の政治道徳的の思潮に對して、近來一部支那人の間に懷疑の念を抱いて參つたのであります。此の政治道徳に關する思想から出來上つた所の數千年來の風俗習慣と云ふものは根柢から崩れ掛つて參つたのであります。勿論此事は今日に始つた事ではありません。丁度十年ばかり前に私が留學致しまして支那の南北に三年の間滯在して居りましたが、其時この支那の人心が變動を受けて居ると云ふことを當時感じましたのであります。隨分その時分には青年の間には儒教と云ふやうなものが迚も今日の時世に適せないのである、是からして舊道徳は廢れて新道徳が行はれなければならぬ、何うしても夫でなければ人心を滿足させることは出來ないと云ふことを唱へた青年があつたのであります。併し之は青年間に新しき空氣を吸つた一部分でありまして、當時の政治家學者の間には、まだそんな考はなかつた。例へば張之洞と云ふやうな人の考を聞きますと、形而下の學問と云ふものは何うしても西洋から採らなければならぬ、併しながら政治道徳の根本思想は支那に既に在るのであつて、決して西洋から採るに及ばない、詰り和魂漢才と云ふ言葉が日本にあれば、支那では漢魂洋才で往かうといふ考であつた。當時私は或人に對
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
狩野 直喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング