の人民であつたならば妄りに新しい法を作ることは出來ないのであります。公羊家の説に依りますと孔子は春秋に於て周の王を退けて周の主權者を認めず、さうして魯と云ふ孔子の居られた國の君を王と認めて居る、其の魯を王と立てゝ……夫を王と假想してさうして魯が新しい法を立てると云ふやうな工合に仕向けて居る。此點に至つては左傳學者と公羊學者と云ふものは大變違つて居る。「元年春王正月」と云ふことを春秋に書いてありますが、王と云ふものは孔子が春秋で以て革命を唱へたのである、周の主權者を取去つてしまつて今度新しく出來た主權者、即ち魯の王樣の正月であると云ふやうに公羊學者は論ずるのであります。また或極端なる公羊の方になると王とは孔子のことであると云ふ。孔子が天命を享けて王になつたのである、詰り王と云ふのは思想上の王である、冠を被らぬ所の帝王となつて孔子が新しく法を立てたと云ふ、斯う云ふやうに觀るのであります。それで張之洞などは前清時代に於て大變公羊學と云ふものを憎んで、斯る危險なる思想を鼓吹したら將來此の世道人心が何うなるであらうと云つて心配を致しました。北京で以て大學が出來た時分にても其中に公羊學を入れると云ふことは宜しくないと云ふ議論があると云ふことを言つて居るのであります。
 夫から第五の點は公羊學は大同小康と云ふ思想ありと爲す點であります。公羊家に言はせますと孔子の春秋は歴史を書いたものでない、即ち教法を書いたものである。孔子は春秋を三期に分つて居る。一番には衰亂の時代、第二には昇平時代、三番は泰平時代と斯う云ふ風に分けて居ります。無論歴史上の事實から申しますと、春秋の初めより後になりますと亂れて居りますが夫は歴史のことであります。孔子の假想したものは初めは衰亂の時代であつて、其次が昇平の時代、夫から泰平の時代と云ふことになつて居ります。衰亂の時代に於きまして孔子の教法は何うであるかと云ふと魯を大事にして居る、さうして他の國を魯と區別して居る。夫から昇平時代となりますと今度は支那と夷狄と云ふものに分つた。夫から泰平時代になりますともう世界が一つになつて詰り國の境が無くなる、支那人も夷狄も何にもない、即ち世界が統一された時代である、斯う云ふ風に觀て居る。隨つて衰亂時代、昇平時代、泰平時代で、第三期の泰平時代には孔子の教法が極點に達する時である。
 大同小康も同じ樣な事で禮記禮運によると
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