問は歐洲でも佛國では最も早く起つた、其影響から天主教僧侶以外に佛國に於ける支那に一度も行つた事のないと云ふ學者の間にも支那の學問を學問的に研究するものが出來た、此時分から佛國に於ける支那學は單に實際の必要上からやる計りでなく、學者が其知識慾を充たす爲め純粹な學術的の立場から支那の經史言語等を研究する樣になつた。そこで佛國大學、即ち「コレツヂ・ド・フランス」に於て一千八百十五年即ち今より百年前其大學に於て支那文學の講座が出來て只今は支那方面の事を研究する講座は二つ出來てあります。教授も其大學に初めて教授になつた人から只今ゐる教授が已に五代を經て居ります、又此拾年以前佛國の教授のペリオと云ふ人が支那に學術探檢をして甘肅省の西北隅の敦煌に於て、千佛洞と云ふ處で宋の初めに兵火の難を免れる爲め寺の石壁の中に藏込み置た古い鈔本殆んど一萬通に達するものを發見した。それが只今巴里の圖書館に這入つて居るが其中には從來支那に於ても我國に於ても已に亡くなつて傳はらなかつたものが發見せられて支那學に非常な革命を來して居ります。又佛國に於ても佛領|河内《ハノイ》に於て、極東學院と云ふ名を附した學校があります、之
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