、それが知らず識らずの間に彼等の感情を害し又彼より輕蔑せらるゝ事となります。
 或時私は支那内地を旅行した。其時賢こさうな子供があつてそれをボーイに雇つて上海に連れて歸つた。上海では當時宿屋に居りましたから私と同じ食物を此ボーイに取らせる譯にいかんから日本の下女下男の居間に之を置いた處が其子供が私の室へ這入つて來て申しますのに私は豫てから日本は非常な文明國と聞いてあなたのボーイに雇つて貰つた事を誠に光榮に思ひます、そして日本へ連れて行つて貰ふ事と思つて居りました。處が今日宿の下男下女の室に居つた處が二人でふざけて男が女の背をたゝいて笑つて居る、全く禮儀がない、あれは一體どうした事ですかと云ふのですから私も一寸其返事に困つたが、實はあの下男下女は日本に居れないで上海に逃げて來た者である、あゝ云ふ者は凡て外國に逃亡してしまふのだ日本ではそんなつまらん事をする者は一人もないと云つてゴマかしたのであります。私は何も支那の肩を持つて支那の風俗は日本より良い、男女關係も日本より支那がよいと云ふのではありません、併し御承知の通り支那人は最も禮儀を貴ぶ者であります、殊に個人の禮儀を貴ぶ事は日本より強い。一體支那人は個人本位で個人の體面とか禮儀を重んずる事に於て鋭どい感じを持つてゐる之を缺くと非常な侮辱と感ずる、其代り國としては大した侮辱を感じない、例へば支那の人に向つてお前の國はいけないと云つても自分は其國民でありながら侮辱せられた感じを起さない、而し個人に對しお前の態度が惡いといつたら吾々日本人が他人よりさう云はれた場合の感じより一層ヒドイ感じを生ずる樣である。
 吾々は外交の事は薩張り知らんが二十一ヶ條と云ふ樣な事が排日の原因の一つであるが、然らば二十一ヶ條とは何かと支那人に尋ねたら其一ヶ條も知らん人間が澤山ある、而し只二十一ヶ條と云ふだけで吾々を侮辱したと云ふので名義と云ふ上より非常に惡い印象を與へてゐる。
 結局彼等は其所謂體面といふことに鋭どき感を有つて居るが、それが支那の國民性でありますが、此國民性と云ふものは一朝一夕で出來たものでなく、御承知の通り支那の歴史と云ふものは四千有余年以來續いて居るので支那の事を知らんとすれば其初に溯ぼつて研究しなければならん、云ひかへれば即ち古典は支那文明の結晶で、あれが基で今日の文明を來たしたのであります、例へば婚禮は支那風俗の一つの現象ですが其婚禮を學問的に調らべると經書の中の儀禮の中の士昏禮から始めねばならぬ。總べて今日吾々が見る樣な支那人の宗教思想、道徳思想、風俗習慣と云ふものがどう云ふ事から來たかと云ふ事を考へるには、勢、四千年の昔に溯ぼつて古典の研究より發せねばならぬ。而してそれをなすには種々な困難が伴つてゐる、第一先づ文字を知る事、支那の文章を讀むと云ふ事之は非常に六ヶ敷い事で、先にお話した伯林大學の教授が話した事がありますが、自分は希臘語ラテン語もヱジプトの文字も少し知つて居るが併し世界で一番學びにくいものは支那文であると申された。吾々日本人は昔から此漢字を祖先以來習つてゐたのであります、西洋人が支那文字を讀む事に困難を感ずる樣には今日漢文が假令衰へて居つてもそれほどまではない。其點から云つても支那の研究は日本人が率先して致さなければならん。而して之を日本人が西洋人に傳へると云ふ意氣込でなければならんと思ふのであります、我國の支那學者は勿論の事であります、只學者の事業にのみ委かさず凡ての國民が同樣の感じを持つ事が必要である、本校は或極まつた目的を持つて建てられた學校で私が特に希望するのは若し諸君の内支那の貿易と云ふ樣な事をやらうと云ふ人があつたらどうか支那文化の學術的研究と云ふ事は六ヶ敷としても、只實業の點から考へて見ても今日まで我國の人に考へられた支那智識より以上の支那智識を得て支那に於て仕事をせられん事を希望する、然らば其諸君の目的とせらるゝ處の商業其ものに就ても非常に利益する事ではあるまいかと思ひます。
 私は講演が極く拙劣で話を致しまする者も非常に苦しいので傾聽して下さる方は定めし更に御つらいと思ひます、極めて論點が支離滅裂で御解りにくい事と思ふのであります、一場の講演によつて私は責だけを塞ぐ事に致します。(拍手)[#地付き](大正十四年二月、和歌山高等商業學校パンフレツト、特別號)



底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
初出:「和歌山高等商業學校パンフレツト、特別號」
   1925(大正14)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「餘」と「余」の混在は底本通りにしました。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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