意し拉丁文字迄に通じて居たといふ話である。併し當時の支那人が、西洋の文明に對する考へは、唯彼等が天文暦算等の技藝に秀でゝ居るから、其長處だけを利用するといふ位のことで、勿論西洋の文明が自國の文明より同等若しくは其以上のものであるなどいふ考は持たなかつた。又實際公平に論じても、當時西洋文明の程度が支那に優つて居たとも思へない。然るに其後西洋の文明は愈※[#二の字点、1−2−22]進歩し來ても、又鴉片戰爭とか英佛同盟軍の北京侵入などあつて、種々の點に於て西洋文明の價値を知る機會に接し少なくとも其畏るべきことを知る機會に接したれど、支那人が自國の文明に對する自負心は、毫しも動搖することなく、以て近年に至つた。尤も近年の事ではあるが、曾國藩李鴻章一二達識の士は略※[#二の字点、1−2−22]西洋の事情を解し其文明を輸入するの必要を唱へ、同治十年兩人連銜して聰頴なる子弟を選び、西洋に留學させんことを請うた。同治十年は我明治四年に當るから、我國初期の留學生が西洋へ往つて居た時代と餘り變りはない。又國中でも、福建の船政學堂、江南製造學堂、南北洋水師學堂など、西洋の學術を授くる處はあつたけれども、其數
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