である。其證據には國粹といふ熟語は、今でこそ上諭奏摺或は通儒名士の文中に見えて、國内の通用語となつて居るけれども、經典は勿論近人の集までこれを使用したものはない。即ち光緒三十三年([#ここから割り注]我明治四十年[#ここで割り注終わり])六月に當時湖廣總督であつた張之洞が存古學堂を立んことを請ふの疏に

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竊惟今日環球萬國學堂。最重[#二]國文一門[#一]。國文者本國之文字語言。歴古相傳之書籍也。即間有[#下]時勢變遷不[#二]盡適用[#一]者[#上]。亦必存而傳[#レ]之。斷不[#三]肯聽[#二]其※[#「さんずい+斯」、第3水準1−87−16]滅[#一]。至[#下]本國最爲[#二]精美擅長[#一]之學術技能禮教風俗[#上]。則尤爲[#二]寶愛護持[#一]。名曰[#二]國粹[#一]。專以[#二]保存[#一]爲[#レ]主。
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とあるが、是を見ても國粹といふ熟語が、元來我國に來た支那留學生などが、本國に輸入したもので、支那にはこれに適當する言葉がないから、有名な新名詞嫌ひの張之洞さへ之を用ゐた事が分る。又近來の支那人に國寶などいふ語を用ゐる
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