我舊律義關[#二]倫常[#一]諸條。不[#レ]可[#三]率行[#二]變革[#一]。庶以維[#二]天理民彝於不[#一レ]敝。該大臣等。務本[#二]此意[#一]。以爲[#二]修改宗旨[#一]。是爲[#二]至要[#一]。」云々の上諭を下された。これを見ても支那が東西洋の文明を採用し、從來の制度に變革を試みんとすると、直ぐに其反動が起り、他國の文明の侵入に對し國粹を主張する傾向を生ずることが分る。是れは我明治初年から二十一二年頃迄の有樣と大に趣を殊にする所で、我國で國粹論の起つたのは、朝野共に歐米の文明に心醉し、舊物は善いも惡いも一度盡く破壞した後の事である。今でこそ誰れも國家とか國體とか武士道とか口癖の樣に唱へて居るけれども、昔しは隨分これと反對の言論をやつた。即ち楠公の忠死を權助の首縊りに比した教育家もある、我國語を英語と定めんければならぬと唱へた經世家もあつた。或は慷慨義烈などいふことは消化器病者の心理状態であるといつた學者もあり、國粹保存どころか人種の改良を主張した論者もあつた。それから猶明治の初年に出た教育に關する御達を見ると「從來學問は士人以上の事として、農工商及び婦女子に至りては之を度外に置き、學問の何物たるを辨ぜず、又士人以上の稀れに學ぶものも、動もすれば國家の爲めにすと唱へ[#「動もすれば國家の爲めにすと唱へ」に丸傍点]、身を立つるの基たるを知らずして[#「身を立つるの基たるを知らずして」に丸傍点]、或は詞章記誦の末に趨り、空理虚談の途に陷り、其論高尚に似たりと雖、之を身に行ひ事を施すこと能はざるもの少からず、是れ即ち沿襲の餘弊にして、文明普ねからず才藝長ぜずして貧乏破産喪家の徒多き所以也[#「貧乏破産喪家の徒多き所以也」に丸傍点]」とある。學問を國家の爲めにすと唱ふるの非を論じ、學問の目的を生活の爲めとし學問の方法を誤まつて、破産喪家に至るなきを戒しむる所など、今日から見ると中々面白い。高山彦九郎、吉田松陰、櫻田四十七士の事蹟などは、今日でこそ大切な教育の材料となつて居るけれども、御達の主意によると、餘り學ぶべきものでない事になる。この明治初年以來の舊物舊思想破壞は餘りに突飛で、又危險であつたけれども、是れも致方なき事で、かゝる猛烈な改革をやつたればこそ、僅四十餘年で、今日の國運隆盛を來した譯である。支那の如くまだ眞正に西洋の文物を採用せぬ先から、國粹な
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