い女の一人だったから、この「しかし」という字の恐ろしさを知らない。いろんな悪いことが、これがあるために好くなり変ることがある。いろんな好いことがこれがあるためにかえって悪くなり変ることがある。夏の夜《よ》は短い。老拱等が面白そうに歌を唱い終ると、まもなく東が白み初《そ》め、そうしてまたしばらくたつと白かね色の曙の光が窓の隙間から射し込んだ。
單四嫂子が夜明けを待つのはこの際他人のような楽なものではなかった。何てまだるっこいことだろう。寶兒の一息はほとんど一年も経つような長さで、現在あたりがハッキリして、天の明るさは灯火を圧倒し、寶兒の小鼻を見ると、開いたり窄《すぼ》んだりして只事でないことがよく解る。
「おや、どうしたら好かろう。何小仙の処で見てもらおう。それより外に道がない」
彼女は感じの鈍い女ではあるが心の中に決断があった。そこで身を起して銭箱《ぜにばこ》の中から毎日節約して貯め込んだ十三枚の小銀貨と百八十の銅貨をさらけ出し、皆ひっくるめて衣套《かくし》の中に押込み、戸締をして寶兒を抱えて何家《かけ》の方へと一散に走った。
早朝ではあるが何家にはもう四人の病人が来ていた。彼女は四十仙で番号札を買い五番目の順になった。
何小仙は指先で寶兒の脈を執ったが、爪先《つまさき》が長さ四寸にも余っていたので、彼女は内心畏敬して寶兒は助かるに違いないと思った。しかしなかなか落ちついていられないのでせわしなく訊き始めた。
「先生、うちの寶兒は何の病いでしょう」
「この子は身体の内部が焦げて塞がっている」
「構いますまいか」
「まず二服ほど飲めばなおる」
「この子は息苦しそうで小鼻が動いていますが」
「それや火が金《かね》に尅《こく》したんだ」
何小仙は皆まで言わずに目を閉じたので、單四嫂子はその上きくのも羞《はずか》しくなった。その時何小仙の向う側に坐していた三十余りの男が一枚の処方箋を書き終り、紙の上の字を一々指して説明した。
「この最初に書いてある保嬰活命丸《ほえいかつめいがん》は賈家濟世老店《こかさいせいろうてん》より外にはありません」
單四嫂子は処方箋を受取って歩きながら考えた。彼女は感じの鈍い女ではあるが、何家と濟世老店と自分の家は、ちょうど三角点に当っているのを知っていたので、薬を買ってから家《うち》へ帰るのが順序だと思った。そこですぐに濟世老店の方へ向
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