明日
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)老拱《ろうきょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)單四|嫂子《あねえ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]
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「声がしない。――小さいのがどうかしたんだな」
 赤鼻の老拱《ろうきょう》は老酒《ラオチュ》の碗を手に取って、そういいながら顔を隣の方に向けて唇を尖らせた。
 藍皮阿五《らんひあご》は酒碗を下に置き、平手で老拱の脊骨をいやというほどドヤシつけ、何か意味ありげのことをがやがや喋舌《しゃべ》って
「手前は、手前は、……また何か想い出してやがる……」
 片田舎の魯鎮《ろちん》はまだなかなか昔風で、どこでも大概七時前に門を閉めて寝るのだが、夜の夜中に睡《ねむ》らぬ家が二軒あった。一つは咸亨《かんこう》酒店で、四五人の飲友達が櫃台《スタンド》を囲んで飲みつづけ、一杯機嫌の大はしゃぎ。も一つはその隣の單四嫂子《たんしそうし》で、彼女は前の年から後家になり、誰にも手頼《たよ》らず自分の手一つで綿糸を紡ぎ出し、自活しながら三つになる子を養っている。だから遅くまで起きてるわけだ。
 この四五日糸を紡ぐ音がぱったり途絶えたが、やはり夜更になっても睡らぬのはこの二軒だけだ。だから單四嫂子の家に声がすれば、老拱等のみが聴きつけ、声がしなくとも老拱等のみが聴きつけるのだ。
 老拱は叩かれたのが無上《むしょう》に嬉しいと見え、酒を一口がぶりと飲んで小唄を細々と唱いはじめた。
 一方單四嫂子は寶兒《ほうじ》を抱えて寝台の端に坐していた。地上には糸車が静かに立っていた。暗く沈んだ灯火の下に寶兒の顔を照してみると、桃のような色の中に一点の青味を見た。「おみ籤《くじ》を引いてみた。願掛もしてみた。薬も飲ませてみた」と彼女は思いまわした。
「それにまだ一向利き目が見えないのは、どうしたもんだろう。あの何小仙《かしょうせん》の処へ行って見せるより外はない。しかしこの児の病気も昼は軽く夜は重いのかもしれない。あすになってお日様が出たら、熱が引いて息づかいも少しは楽になるのだろう。これは病人としていつもありがちのことだ」
 單四嫂子は感じの鈍
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