はひやりとして手を放した。下顎の骨はふらふらと坑の底へ帰ってゆくと同時に彼は中庭に逃げ出した。彼は偸《ぬす》み眼して部屋の中を覗くと、燈光はさながら輝き、下顎の骨はさながら冷笑《あざわら》っている。これは只事《ただごと》でないからもう一度向うを見る気にもなれない。彼は少し離れた簷下《のきした》に身を躱《かく》してようやく落ち著きを得たが、この落ち著きの中にたちまちひそひそとささやく声が聞えた。
「ここではない。……山の中へ行け」
陳士成はかつて白昼、街の中でこれと同じ人声を聴いたことを想い出し、彼はもう一度聞かぬ先きに、おおそうだと悟った。彼は突然仰向いて空を見ると、月はすでに西高峯《せいこうほう》の方面に隠れ去った。町を去る三十五里の西高峯は眼の前にあり、笏《しゃく》を執る朝臣《ちょうしん》の如く真黒に頑張って、その周囲にギラギラとした白光は途方もなく拡がっていた。しかもこの白光は遠くの方ではあるが、まさに前面にあった。
「そうだ。あの山に行こう」
彼はこう決して打ちしおれて出て行った。幾度も門を開《あ》け閉《た》てする音がしたあとで、門の中はひっそりとしてそよとの声もない。燈火
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