「なぜ受取らんか、こわいことがあるもんか」
 と怒鳴った。
 老栓はなおも躊躇《ちゅうちょ》していると、黒い人は提灯を引ッたくって幌《ほろ》を下げ、その中へ饅頭を詰めて老栓の手に渡し、同時に銀貨を引掴《ひっつか》んで
「この老耄《おいぼれ》め」
 と口の中でぼやきながら立去った。
「お前さん、それで誰の病気をなおすんだね」
 と老栓は誰かにきかれたようであったが、返辞もしなかった。彼の精神は、今はただ一つの包《パオ》(饅頭)の上に集って、さながら十世単伝《じっせたんでん》の一人子《ひとりご》を抱《いだ》いているようなものであった。彼は今この包《パオ》の中の新しい生命を彼の家に移し植えて、多くの幸福を収め獲《え》たいのであった。太陽も出て来た。彼のめのまえには一条の大道《だいどう》が現われて、まっすぐに彼の家まで続いていた。後ろの丁字街の突き当たりには、破れた※[#「匚+扁」、第4水準2−3−48]額《へんがく》があって「古《こ》×亭口《ていこう》」の四つの金文字《きんもじ》が煤黒《すすぐろ》く照らされていた。

        二

 老栓は歩いて我家《わがや》に来た。店の支度はもうちゃんと出来ていた。茶卓は一つ一つ拭き込んで、てらてらに光っていたが、客はまだ一人も見えなかった。小栓は店の隅の卓子《テーブル》に向って飯を食っていた。見ると額《ひたい》の上から大粒の汗がころげ落ち、左右の肩骨が近頃めっきり高くなって、背中にピタリとついている夾襖《あわせ》の上に、八字の皺が浮紋《うきもん》のように飛び出していた。老栓はのびていた眉宇《まゆがしら》を思わず顰《しか》めた。華大媽は竈《かまど》の下から出て来て脣を顫わせながら
「取れましたか」
 ときいた。
「取れたよ」
 と老栓は答えた。
 二人は一緒に竈の下へ行って何か相談したが、まもなく華大媽は外へ出て一枚の蓮の葉を持ってかえり卓《テーブル》の上に置いた。老栓は提灯の中から赤い饅頭を出して蓮の葉に包んだ。
 飯を済まして小栓は立上ると華大媽は慌てて声を掛け
「小栓や、お前はそこに坐《すわ》っておいで。こっちへ来ちゃいけないよ」
 と吩咐《いいつ》けながら竈の火を按排した。その側《そば》で老栓は一つの青い包《つつみ》と、一つの紅白の破れ提灯を一緒にして竈の中に突込むと、赤黒い※[#「(勹/臼)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》が渦を巻き起し、一種異様な薫りが店の方へ流れ出した。
「いい匂いだね。お前達は何を食べているんだえ。朝ッぱらから」
 駝背《せむし》の五少爺《ごだんな》が言った。この男は毎日ここの茶館に来て日を暮し、一番早く来て一番遅く帰るのだが、この時ちょうど店の前へ立ち往来に面した壁際のいつもの席に腰をおろした。彼は答うる人がないので
「炒り米のお粥かね」
 と訊き返してみたが、それでも返辞がない。
 老栓はいそいそ出て来て、彼にお茶を出した。
「小栓、こっちへおいで」
 と華大媽は倅を喚《よ》び込んだ。奥の間のまんなかには細長い腰掛が一つ置いてあった。小栓はそこへ来て腰を掛けると母親は真黒《まっくろ》な円いものを皿の上へ載せて出した。
「さあお食べ――これを食べると病気がなおるよ」
 この黒い物を撮み上げた小栓はしばらく眺めている中《うち》に自分の命を持って来たような、いうにいわれぬ奇怪な感じがして、恐る恐る二つに割ってみると、黒焦げの皮の中から白い湯気《ゆげ》が立ち、湯気が散ってしまうと、半分ずつの白い饅頭に違いなかった。――それがいつのまにか、残らず肚《はら》の中に入ってしまって、どんな味がしたのだがまるきり忘れていると、眼の前にただ一枚の空皿《あきざら》が残っているだけで彼の側《そば》には父親と母親が立っていた。二人の眼付《めつき》は皆一様に、彼の身体に何物かを注《つ》ぎ込み、彼の身体から何物かを取出そうとするらしい。そう思うと抑え難き胸騒ぎがしてまた一しきり咳嗽込んだ。
「横になって休んで御覧。――そうすれば好くなります」
 小栓は母親の言葉に従って咳嗽|入《い》りながら睡った。
 華大媽は彼の咳嗽の静まるのを待って、ツギハギの夜具をそのうえに掛けた。

        三

 店の中には大勢の客が坐っていた。老栓は忙しそうに大薬鑵《おおやかん》を提げて一さし、一さし、銘々のお茶を注《つ》いで歩いた。彼の両方の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》は黒い輪に囲まれていた。
「老栓、きょうはサッパリ元気がないね。病気なのかえ」
 と胡麻塩ひげの男がきいた。
「いいえ」
「いいえ? そうだろう。にこにこしているからな。いつもとは違う」
 胡麻塩ひげは自分で自分の言葉を取消した。
「老栓は急がしいのだよ。倅のためにね……」
 駝背の五少爺がもっと
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