風波
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)烏臼木《うきゅうぼく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三代|鋤鍬《すきくわ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+息」、第4水準2−5−70]
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 河沿いの地面から、太陽はその透きとおった黄いろい光線をだんだんに引上げて行った。河端の烏臼木《うきゅうぼく》の葉はからからになって、ようやく喘ぎを持ち堪えた。いくつかの藪蚊は下の方に舞いさがって、ぶんぶんと呻った。農家の煙筒のけむりは刻一刻と細くなった。女子供は門口の空地に水を撒いて、小さな卓子《テーブル》と低い腰掛をそこに置いた。誰にもわかる。もう晩飯の時刻が来たのだ。
 老人と男たちは腰掛の上にすわって無駄話をしながら大きな芭蕉団扇をゆらめかした。子供等は飛ぶが如くに馳《か》け出した。ある者は烏臼木の下にしゃがんで賭けをして石コロを投げた。女は真黒な干葉と松花のような黄いろい御飯を持ち出した。熱気がもやもやと立上った。
 文人の酒船は河中を通った。文豪は岸を眺め大《おおい》に興じた。「苦労も知らず、心配も知らず、これこそ真に田家の楽しみじゃ!」

 けれど文豪のこの話はいささか事実に背反している。彼は九斤老太《きゅうきんろうたい》の話をききのがしていたからだ。この時九斤老太は不平の真ッ最中であった。「わしは命あって七十九のきょうまで生き延びたが、あまり長生きをし過ぎた。わしは世帯《しょたい》くずしのこのざまを見たくはない。いっそ死んだ方が増しじゃ。もうじき御飯だというのに、また煎り豆を出して食べおるわい。これじゃ子供に食いつぶされてしまうわ」
 彼の孫娘の六斤《ろくきん》はちょうど、一掴みの煎り豆を握って真正面から馳け出して来たが、この様子を見て、すぐに河べりの方へ飛んで行き、烏臼木の後ろに蔵《かく》れて、小さな蝶々とんぼの頭を伸ばして「死にそこないの糞婆」と囃し立てた。
 九斤老太は年の割に耳が敏《はや》かった。けれど今の子供の言葉はつい聴きのがした。そうしてなお独言《ひとりごと》を続けた。「ほんとにこんな風では代々落ち目になるばかりだ」
 この村には特別の習慣があって、子供が出来ると秤に掛け、斤目によって名前を附ける。九斤老太は五十の年を祝ってから、だんだんと不平家になった。彼女はいつも若い時の事をはなして、天気はこんなに熱くはなかった、豆はこんなに硬くはなかった、と、なんでも皆、今の世の中が悪くて昔の世の中がいいのだ。まして六斤は彼の祖父の九斤に比べると三斤足りない。彼の父の七斤《しちきん》に比べると一斤足りない。これこそ本当に正真正銘の事実だから彼女は、「代々落ち目になるばかりだ」と固く言い張るのである。

 七斤ねえさんというのは、彼女の倅の※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》である。その時七斤ねえさんは飯籃《めしかご》をさげて卓《テーブル》の側《そば》に行き、卓上に飯籃を投げ卸してプリプリ腹を立てた。「おばあさん、またそんなことを言っているよ。内の六斤が生れた時には六斤五両ありましたよ。内の秤は自家用の秤ですから掛目があらくなっているので、十八両が一斤です。もし十六両秤をつかえば六斤は七斤余りになります。わたしはそう思うの。曾祖父《ひいじいさん》や祖父《おじいさん》はきっと十四両秤をつかったんですよ。普通の秤に掛ければ、せいぜい九斤か八斤くらいのものです」
「代々落ち目になるばかりだ」九斤老太は同じ事を繰返した。
 七斤ねえさんはこれに対してまだ答えもせぬうちにたちまち七斤が露路口《ろじぐち》から現われた。そこで彼女は夫に向って怒鳴りつけた。
「お前さん、なんだって今時分帰って来たの。どこへ行ってけつかったの。人がお前の御飯を待っているのが解らねえのか。この馬鹿野郎!」

 七斤は田舎に住んではいるが少しく野心を持っていた。彼の祖父から彼の代まで三代|鋤鍬《すきくわ》を取らなかった。彼もまた先代のように人のために通い船を出していた。毎朝一度|魯鎮《ろちん》から城へ行って夕方になって帰って来た。そういうわけでなかなか世事に通じていた。たとえばどこそこでは雷公《かみなり》が蜈蚣《むかで》のお化けを劈《さ》き殺した。どこそこでは箱入娘が夜叉のような子を産んだ。というようなことなど好く知っていた。彼は村人の中では確かにもう指折の人物になっていた。けれど夏は燈火《あかり》のつかぬうちに食事をするのが農家の慣わしであるから、帰りが遅くなって嚊《かかあ》に小言をいわれるのは無理もないことである。
 七斤は象牙の吸口と白銅の雁首の附いている六
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