今こそそんな事をいうが、あの時は……」
「なんだ。活き腐れめ、咎人め」
 見物人の中で、八一ねえさんは心掛けのごくいい人であった。彼女は二歳の忘れがたみを抱いて、七斤ねえさんの側で騒動の成行きを見ていたが、この時心配のあまり慌てて口をきいた。「七斤ねえさん、もういいよ。人は神様でないから、誰だって未来のことは分りません。あの時お前は何とも言わないのは、辮子が無くとも好かったんじゃないか。ましてお役所の旦那はいまだに御布《おふ》れを出さないのを見ると――」
 七斤ねえさんはしまいまで聴かぬうちに、もうふたつの耳朶を真赤にして箸を持って振向き、それを八一ねえさんの鼻先きへ差しつけ「おやおや、これはまた妙なことを聞くもんだね、八一ねえさん、わたしはどう考えてみても、こんな出鱈目を言われる覚えはありません。あの時わたしは三日の間泣きとおしてこの六斤の餓鬼までも連れ泣きしたのは、誰も皆知っていることです」
 その時六斤は大きなお碗の中の飯を食い完って、空碗を持上げ、手を伸ばして「お代り」と言った。七斤ねえさんはいらいらしていたので、ちょうど六斤の蝶々とんぼの真上にあった箸をあげて、急に下したから六斤の頭のまん中を叩きつけたわけである。「誰がお前に口出ししろと言ったえ。この間男の小寡婦《ちびごけ》め!」と大きな声であてつけた。
 ガランと一つ音がして、六斤の手の中の空碗が地の上へころげ落ち、煉瓦の角にぶつかって大きな欠け口が出来た。七斤は跳び上って欠け碗を取上げ、破片を拾って合せてみながら「畜生」と一つぼやいて六斤を叩きのめした。九斤老太は泣き倒れている六斤の手を取って引越し「代々落ち目になるばかりだ」といいつづけて一緒に歩き出した。
 八一ねえさんも怒り出した。「七斤ねえさん、お前は棒を恨んで人を打つのだよ……」
 趙七爺は初めから笑っていたが、八一ねえさんが「役所の旦那が御布れを出さない」と言った時から、いささか機嫌を損じて卓《テーブル》のまわりを歩き出し、この時すでに一周し完って話を引取った。「棒を恨んで人を打つ。それがなんだ。大兵が今にもここへ到著するのをお前達は知らないのか。今度おいでになるのは張大帥《ちょうたいすい》だ。張大帥はすなわち燕人《えんじん》張翼徳《ちょうよくとく》の後裔で、彼が一度丈八の蛇矛《じゃぼこ》を支えて立つと、万夫不当《ばんぷふとう》の勇がある。
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