白光
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)陳士成《ちんしせい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|神仏《かみほとけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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 陳士成《ちんしせい》が県の試験の発表を見て、家へ帰って来た時にはもう午後であった。彼は行った時には手ッ取早く掲示板を見て、まず上段の陳字を捜した。陳字も少くはないが、皆先きを争い、遅るるを恐れるように彼の眼の中に躍《おど》り上って来た。しかしそれに繋がっているのは士成の二字ではなかった。彼は新規巻きなおしにもう一度十二枚の掲示の円図の中を一つ一つ捜し尋ねて人名を皆見尽したが、遂に陳士成の名を見出すことが出来なかった。彼はただ試験場の壁の前に突立っていた。
 涼風《すずかぜ》はそよそよと彼の白髪交りの短い髪の毛を吹き散らしたが、初冬の太陽はかえって暖《あたた》かに彼を照し、日に晒された彼は眩暈を感じて、顔色は灰色に成り変り、過労のため赤く腫れ上った二つの眼の中から奇妙な閃光が飛び出した。この時は、実はもう壁の上の掲示などは眼の中にない。ただたくさんの真黒な○○がふらふらと眼の前に浮び出しているのだ。
 ずば抜けた秀才として初等試験から高等試験まで立続けに及第し……村の物持はあらゆる手段をもって縁を繋ぎ求め、人々は皆|神仏《かみほとけ》のように畏敬し、深く前の軽薄を悔いて気を失うばかり……自分の襤褸《ぼろ》屋敷の門内を賃借りする雑姓を追い出し――追い出すどころか、なかなかどうして彼等自身で運び出す――家屋は面目を一新して門口には旗竿と扁額……位が欲しければ京官《けいかん》となるもよし、金が欲しければ地方官となるがいい。……彼は常日頃割り当てていた行先が、この時|潮《うしお》をうけたキンカ糖の塔のように、ガラリと崩れて、ただうず高き破片のみが余っていた。彼は藻抜けの殻をぐるりと廻して知らず知らず家路に著《つ》いた。
 彼はようやく自分の家の門口に著いた。七人の生徒は一斉に口を開けてがやがやと本を読み始めた。彼はびっくりして、耳の側で鐘を叩かれたように感じた。見ると七人の頭が小さな辮子《べんす》を引いて眼の前に浮び上った。部屋中に浮び上って黒い輪に挟まれながら跳《おど》り出した。彼は椅子に腰を卸《おろ》してよく見ると、彼等は夜学に来ているのだが、彼の顔色を窺うようにも見えた。
「帰ってもいい」
 彼はようやくのことで、これだけのことを悲しげに言った。
 子供等はぞんざいに本を包んで小腋《こわき》に抱え、砂煙を揚げて馳《か》け出して行った。
 陳士成はまだいろいろの小さな頭が黒い輪に挟まれて眼の前に踊り出すのを見た。それが、時には交ぜこぜになり、時にはまた異様な陣立《じんだて》に排列され、遂にだんだん減少してぼんやりとして来た。
「今度もこれでお終い」
 彼はびっくりして跳び上った。明らかに耳の側《そば》で話しているのである。振返ってみると人がいるわけではない。まるでボーンと一つ、鐘を叩くようにも聞えたので、自分の口でもいいなおしてみた。
「今度もこれでお終い」
 彼はたちまち片方の手を上げて指折数えて考えてみると、十一、十三囘、今年も入れて十六囘だ、とうとう文章のわかる試験官が一人も無かった。眼があっても節穴同然、気の毒なこった、と思わずクスクスと噴き出したが、また憤然としてたちまち本の包《つつみ》の中から、正しく書き写した制芸文と試験用紙を脱《ぬ》き出し、それを持って外へ出た。家の門まで出ると凡《すべ》てがハッキリ見え出し、一群の鶏も彼を笑っているので度肝を抜かれて引込んだ。
 彼は部屋に入って席に著くと、二つの眼が異常に光った。彼の眼はいろいろのものを見ながらはなはだ攫《つか》みどころのない。キンカ糖の塔のように崩れた行先が眼の前に横たわった。この行先はひたすら広大にのみなりゆきて、彼の一切の路《みち》を堰《せ》き止めた。
 よその家の煮焚きの烟《けむり》は、ずっと前に消え尽して、箸もお碗《わん》も洗ってしまったが、陳士成はまだ飯も作らない。ここの長屋を借りて住む趙錢李孫(源平藤橘)は長いしきたりを知っていて、およそ県試験の年頭に当り、成績が発表されたあとで、このような彼の眼付を見ると、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》門を締めて、余計なことに関係せぬに越したことはないから、真先きに人声が絶え、続いて次から次へと燈火を消してしまうので、冴え渡った月が独りゆるゆると寒夜の空に出現した。
 青い空は一つの海のような工合で、そこにいささか見え
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