て眼の前に浮び上った。部屋中に浮び上って黒い輪に挟まれながら跳《おど》り出した。彼は椅子に腰を卸《おろ》してよく見ると、彼等は夜学に来ているのだが、彼の顔色を窺うようにも見えた。
「帰ってもいい」
 彼はようやくのことで、これだけのことを悲しげに言った。
 子供等はぞんざいに本を包んで小腋《こわき》に抱え、砂煙を揚げて馳《か》け出して行った。
 陳士成はまだいろいろの小さな頭が黒い輪に挟まれて眼の前に踊り出すのを見た。それが、時には交ぜこぜになり、時にはまた異様な陣立《じんだて》に排列され、遂にだんだん減少してぼんやりとして来た。
「今度もこれでお終い」
 彼はびっくりして跳び上った。明らかに耳の側《そば》で話しているのである。振返ってみると人がいるわけではない。まるでボーンと一つ、鐘を叩くようにも聞えたので、自分の口でもいいなおしてみた。
「今度もこれでお終い」
 彼はたちまち片方の手を上げて指折数えて考えてみると、十一、十三囘、今年も入れて十六囘だ、とうとう文章のわかる試験官が一人も無かった。眼があっても節穴同然、気の毒なこった、と思わずクスクスと噴き出したが、また憤然としてたちまち本の包《つつみ》の中から、正しく書き写した制芸文と試験用紙を脱《ぬ》き出し、それを持って外へ出た。家の門まで出ると凡《すべ》てがハッキリ見え出し、一群の鶏も彼を笑っているので度肝を抜かれて引込んだ。
 彼は部屋に入って席に著くと、二つの眼が異常に光った。彼の眼はいろいろのものを見ながらはなはだ攫《つか》みどころのない。キンカ糖の塔のように崩れた行先が眼の前に横たわった。この行先はひたすら広大にのみなりゆきて、彼の一切の路《みち》を堰《せ》き止めた。
 よその家の煮焚きの烟《けむり》は、ずっと前に消え尽して、箸もお碗《わん》も洗ってしまったが、陳士成はまだ飯も作らない。ここの長屋を借りて住む趙錢李孫(源平藤橘)は長いしきたりを知っていて、およそ県試験の年頭に当り、成績が発表されたあとで、このような彼の眼付を見ると、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》門を締めて、余計なことに関係せぬに越したことはないから、真先きに人声が絶え、続いて次から次へと燈火を消してしまうので、冴え渡った月が独りゆるゆると寒夜の空に出現した。
 青い空は一つの海のような工合で、そこにいささか見え
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