兎と猫
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)三太太《サンタイタイ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十分|哺《はぐく》む

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]
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 わたしどもの裏庭の奥に住んでいる三太太《サンタイタイ》は、夏のうち一対の白兎を買取り、彼の子供等の玩具《おもちゃ》にした。
 この一対の白兎は乳離れがしてから余り長くはないらしく、畜生ではあるが彼等の天真爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]《てんしんらんまん》を見出される。しかし真直ぐに立った小さな赤味を帯びた耳と、ぴくぴく動かす鼻と、どぎまぎした眼は、知らぬところに移って来たせいでもあろう。住みなれた家にいた時の安心さはない。こういうものは縁日へ行って自分で買えば、一つが高くとも二吊文《にちょうもん》に過ぎないが、三太太は一円払った。それはボーイをやって上店《じょうみせ》から買って来させたからだ。
 子供等はもちろん大喜びで、取囲んで見る。他にSという一匹の小犬がある。馳《か》け出して来てふんふん嗅いでみて、嚔《くしゃみ》を一つして二三歩退いた。三太太は叱りつけ
「S、咬みつくと承知しないよ。よく覚えておいで」
 と彼の頭を掌で叩いた。Sはあとじさりしてそれから決して咬みつこうともしない。
 この一対の兎は結局裏窓に面した小庭の中に締め込まれている日が多かった。聞けば大層壁紙を破ることが好きで、またたびたび木器の脚を噛《かじ》る。この小庭の内に桑の樹が一本ある。桑の実が地に落ちると、彼等はとても喜んでそれを食い、ほうれん草をやっても食わない。烏や鵲《かささぎ》が下りて来ると、彼等は身を僂《ちぢ》めて後脚《あとあし》で地上に強く弾みを掛け、ポンと一つ跳ね上る有様は、さながら一団の雪が舞い上ったようで、烏や鵲はびっくりして逃げ出す。こんなことがたびたびあるのでその後はもう近づいて来ない。三太太の話では、烏や鵲はちょっと食物《くいもの》を横取りするくらいだから一向差支えありませんが、憎らしいのは、あの大きな黒猫ですよ。いつも低い垣根の上で執念深く見詰めています。これは用心しなければならないのですが、幸いにSと猫と鼻突き合せているから、まだ何事も仕出《しで》かさないのでしょう。
 子供等は時々彼等を捉《つか》まえて玩弄《おもちゃ》にする。彼等はお愛想《あいそ》よく、耳を立て鼻を動かし小さな手の輪組の中におとなしく立っているが、少しでも、隙があれば逃げ出そうとする。彼等の夜の伏所《ふしど》は小さな木箱である。中に藁を敷き、裏窓の軒下に置いてある。
 このような日を幾月も送った後、彼等はたちまち自分で土を掘り始めた。掘り出しかたが非常に早く、前脚で掻くと後脚で蹶《け》る。半日経たぬうちに一つの深い洞《ほら》を掘り上げた。皆不思議に思ってよく調べてみると、一匹の腹が他の一匹のそれよりも肥えていた。彼等は二日目に枯草と木の葉を銜《くわ》えて洞内に入り半日あまり急がしかった。
 衆《みな》は大《おおい》に興じきっと小兎が出来るのだろうと言った。三太太は子供等に対して戒厳令を下し、これから決して捉まえてはなりませんぞという。わたしの母も彼等の家族の繁栄を喜び、生れて乳離れがしたら、二匹別けて貰ってこちらの窓下で飼ってみようと言った。
 彼等はそれから自分で造った洞府《あなぐら》の中に住んで時々出て来ては何か食べていたが、後ではパッタリ姿を見せなくなった。前もって食糧を蔵《しま》い込んであるのかしらんがとにかく食いに出て来ない。十日ばかり過ぎて三太太はわたしに言った。あの二匹はまた出て来ましたが、おおかた生れるとすぐに小兎が死んだんでしょう、雌の方は乳が非常に張っていて、子供を哺育した模様は更に見えません。彼女は腹立たしげに語ったが、どうも仕方がない。
 ある日、日ざしが非常に暖かく風もなく木の葉はすべて動かなかったが、後ろの方で頻りにどよめく笑声を聞いた。声を尋ねて目をやると、大勢の人が三太太の裏窓に靠《もた》れて、庭内を跳ね廻る一匹の小兎を見ていた。それは彼の父母が買われて来た時よりももっと小さかったが、彼は後脚を弾いて躍り上ることをもう知っていた。子供等は先きを争って私に告げた。もう一つ小さいのが、洞の口から首を出したんですが、すぐに引込んでしまいました。あれは弟でしょう。
 その小さいのはちょっと草の葉を択《えら》んで食ったが、親兎は許さぬらしく、往々口を突き出して横合いから奪い取り、自分も決して食わない。子供等はどっと笑い出した。小さいのは喫驚《びっくり》し
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