ぶしいキラめき。その時十二時だ。たちまちわたしはとてもこんな処にいられないと思った。同時にわたしは機械的に身を捻《ねじ》って力任せに外の方へと押出した。後ろは一杯の人で通る路《みち》もなかったが、大概その弾力性に富んだ肥えた紳士が、早くもわたしの抜け出したあとに、彼の右半身を突込んだので、わたしは自然に押され押されて木戸口に出てしまった。
 街は観客の車以外にはほとんど一人も通行人がなかった。それでも木戸口には十何人か頭を昂《あ》げて芝居の番附《ばんづけ》を見ていた。外に一かたまりの人が、何にも見ずに立っていた。わたしは何にも知らずに来たことを我れながら悔んだが、結局芝居の題目さえも忘れてしまった。
 わたしが実際いい芝居を見たのは、それよりずっと前の事だ。
 その時おそらくまだ十一二にもならなかったろう。わたしども魯鎮《ろちん》の習慣は、およそ誰でも嫁に入《い》ったむすめは、まだ当主にならないうちは、夏の間たいていは里方に行って暮すのである。その時分わたしの祖母はまだ達者であったが、母もいくらか家事の手伝いをしていたので、夏も長く帰っていることは出来なかった。ぜひなく墓掃除をすましたあとで、二三日の暇を見て抜け出して行《ゆ》くのであった。わたしは母親に跟いて外《がい》祖母の家《うち》に遊びに行ったことがある。そこは平橋村《へいきょうそん》と言って、ある海岸から余り遠くもないごくごく偏僻《へんぴ》な河添いの小村で、戸数がやっと三十くらいで、みな田を植えたり、魚を取ったりそういう暮しをしている間に、ただ雑貨屋が一軒あるだけであったが、わたしに取っては極楽世界であった。ここへ来れば優待されるのみか「秩秩斯干幽幽南山《チーチースーハンユウユウナンシャン》」などというものを唸らなくともいいからである。
 わたしと一緒に遊ぶいろいろの小さな友達が遠客が来たので、彼等もまた父母の許しを得て、仕事を控えてわたしのお相手をした。小村の中の一家の客もほとんど大概芝居のハネたあとの女を見に行くことを考えていた。しかし叫天はそこにもやッぱりいなかった……
 さはさりながら夜の空気は非常に爽《さわや》かで、全く「人の心脾《しんひ》に沁む」という言葉通りで、わたしが北京《ペキン》に来てからこの様ないい空気に遇ったのは、この芝居帰りの外《ほか》にはなかったようにも覚えた。
 この一夜《ひとよ》はとりもなおさず、わたしが支那芝居に告別をした一夜で、もう一度そんなことに遇おうとも思わず、たまたま芝居小屋の前を過ぎても、わたしどもとはまるきり関係がなく、精神がすでに一つは天の南にあり、一つは地の北にあった。
 けれどもその二三日前にわたしは思いがけなくある日本の本を読んだ。惜しいことには本の名前も著者の名前も忘れてしまったが、とにかく支那芝居に関することで、その中の一篇をかいつまんでいうと、支那芝居は無闇に叩き、無暗に叫び、無暗に踊り、観客の頭を昏乱《こんらん》させるから、劇場向きではないが、野広《のびろ》いところで遠くの方から見ていると、自然に面白味がわかって来ると書いてあった。わたしはその時そう思った。これはいつもわたしの胸の中にあってまだ言い出したことのない言葉だと。だからわたしはいい芝居は野外で見られるものと、しっかり覚えていた。北京《ペキン》へ行ってからも芝居小屋に二度入ったが、やッぱりあの時の影響を受けたのかもしれない。何しろこれは公共のものではないか。
 わたしどもは年頃もおつかつだったが順序から言えば一番下の弟だ。外《ほか》に幾人も目上の者がある。村じゅうは皆同姓で一家であった。そうはいうもののわたしどもは友達だ。喧嘩でもして年上の者を打つと一村の者は老人も若い者も、目上という言葉を想い出せない。彼等は百人中、九十九人は字を知らなかった。
 わたしどもの日々の仕事は大概|蚯蚓《みみず》を掘って、それを針金につけ、河添いに掛けて蝦《えび》を釣るのだ。蝦は水の世界の馬鹿者で遠慮会釈もなしに二つの鋏で鈎《はり》の尖《さき》を捧げて口の中に入れる。だから半日もたたぬうちに大きな丼に一杯ほど取れる。その蝦はいつもわたしが食べることになるのだ。その次は皆と一緒に牛を飼うのだがこれは高等動物のせいかもしれない。黄牛《おうぎゅう》も水牛も空をつかってわたしを馬鹿にする。わたしは側へゆくことが出来ないで遠くの方で立っていると小さな友達はわたしが「秩秩斯干《チーチースーハン》」が読めることなど頓著《とんじゃく》なしに寄ってたかって囃《はや》し立てる。
 わたしがそこにいて一番楽しみにしたのは、趙荘《ちょうそう》へ行って芝居を見ることだ。趙荘は比較的大きな村で平橋村から五里離れていた。
 平橋村は村が小さいので、自分で芝居を打つことが出来ないから、毎年《まいねん》趙
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
魯迅 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング