たしの心を押し沈め、我れを忘れていると、それは豆麦や藻草の薫《かおり》の夜気《やき》の中に、散りひろがってゆくようにも覚えた。
その火は近づいた。果して漁り火だった。わたしが今し方見たのは趙荘ではなかった。それは一叢《ひとむれ》の松林で、わたしは去年遊びに来て知っていたが、今も壊れた石馬《せきば》が河端《かわばた》にのめって、一つの石羊《せきよう》が草の中にうずくまっていた。この林を越すと、船はぐるりと廻ってまた港に入《い》り、そこで初めて趙荘が見えた。
何よりも先《さ》きに眼に入《い》ったのは村の端《はず》れの河添いの空地に突立っている一つの舞台だ。ぼんやりとした遠くの方の月夜の中で、空間《くうかん》の諸物がほとんどハッキリ分界していなかった。わたしは画《え》の中の仙境がここへ出現したのかと思った。この時船はいっそう早く走って、まもなく舞台の人が見え、赤い物や青い物が動いて舞台の側の河の中に真黒《まっくろ》に見えるのは、見物人の船の苫《とま》だ。
「前の方に空間《あきま》がないから俺達は遠くの方で見よう」と阿發が言った。
船はここまで来ると、ゆっくり漕ぎ出して、だんだん側に近づいてみると果たして空間《あきま》がなかった。みんなが棹をおろしたところは、舞台の正面からはずいぶん離れていた。正直に言うと、わたしどもの白苫《しろとま》の船は黒苫《くろとま》の船の側へ行《ゆ》くのはいやなんだ。まして空間《あきま》がないのだから。
停船の間際に舞台の上を見ると黒い長※[#「髟/胡」、239−1]の男が、四つの旗《はた》を背に挿して、長槍をしごき、腕を剥き出した大勢の男と戦いの最中であった。
「あれは名高い荒事師《あらごとし》だ。蜻蛉《とんぼ》返りの四十八手が皆出来るんだよ。昼間幾度も出た」と雙喜は言った。
わたしどもは皆|船頭《みよし》に立って戦争を見ていたが、その荒事師は決して蜻蛉返りをしなかった。ただ腕を剥き出した男が四五人、逆蜻蛉を打つと皆引込んでしまった。続いて一人の女形《おやま》が出てイーイーアーアーと唱った。雙喜はまた言った。
「夜は見物が少いから、荒事師は怠けているのだ。誰だってしんそこの腕前を無駄に見せるのはいやだからね」
全くそうだった。その時舞台の下にはあまり多くの人を見なかった。田舎者はあすの仕事があるから、夜になると我慢が出来ず皆|睡《ねむ
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