幸福な家庭
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)乃公《おれ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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「……するもしないも全く自分の勝手だが、作品というからには、鉄と石とカチ合って出来た火花のようなものでは駄目だ。あの太陽の光のように無限の光源の中から湧き出して来たようなものが、これこそ真の芸術だ。その作者こそ初めて真の芸術家だ。そうして乃公《おれ》は……それしきのことが何だ……」
 彼はそこまで考えると、いきなりベッドから跳起《はねお》きた。彼はずっと前から、原稿料で生活をして行《ゆ》きたいと考えていたが、投稿するなら、まず幸福日報社が好かろうと規《き》めていた。そこは比較的に稿料を余計に呉《く》れるからだ。しかし、作品には一定の範囲があるから、その範囲を越えれば没書になる恐れがある。範囲も範囲だが……現代の青年の脳裏にある大問題は? なかなか少くなさそうだ。いやどっさりあるかもしれない。恋愛、結婚、家庭などと来ては。……そうだ、この点についてはたしかに多くの人が悩んでいて、ちょうど今いろいろ討論中である。では家庭を書いてみよう。それはそうとどんな風に書こうかな……そうしなければ没書になる恐れがあるし、わざわざ時勢に背く必要もない。それはそうと……彼はベッドから跳上《はねあが》ると、五六歩進んでテーブルの前に行《ゆ》き、緑罫の原稿用紙を一枚取ると、ぶっつけに、やや自棄《やけ》気味にもなって、次のような題を書いた。
「幸福な家庭」
 だが、彼の筆はたちどころに渋った。彼は仰向になって両眼を屋根裏に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りながら、「幸福の家庭」の置場を考えてみた。「北京は? 駄目だ。全く沈み切ってしまって空気までも死んでいる。よしんば家庭のまわりを高塀が、ぐるりと囲んでいるにもせよ、まさか空気を遮断することは出来まい。つまり駄目だ! 江蘇浙江《こうそせっこう》は毎日戦争の防備をしているし、福建《ふくけん》と来たらなおさら盛んだ。四川《しせん》、広東《カントン》は? ちょうど今戦争の真最中だし、山東《さんとう》、河南《かなん》の方は? おお土匪《どひ》が人質を浚《さら》ってゆく。もし人質に取られたら、幸福な家庭はすぐに不幸な家庭になってしまう。そうかといって上海《シャンハイ》、天津《てんしん》の租界へ置けば家賃が高い。じゃ外国へ置くとしたらいい笑い話だ。雲南《うんなん》、貴州《きしゅう》は交通があまりに不便で、どんな風だか解らん……」彼は思いめぐらしてみたが、適当の場所を想い出せない。そこでA《エー》と仮定した。「今でもアルファベットで人名地名を書き現わすと、読者の興味を減少するという者が少くはない。今度の俺の投稿では、これを用いない方が安全だ。それでは、どこがいいだろうかな? 湖南《こなん》も戦争だ。大連《たいれん》はやはり家賃が高い。察哈爾《チチハル》、吉林《きちりん》、黒竜江《こくりゅうこう》は――、馬賊が出るというし、こいつもいけない!……」そこで、いくら考えてみても格別にこれといった所もないので、「幸福な家庭」の所在はAということに仮定した。
「つまり、この幸福の家庭がAに在ると極《き》めれば問題はない。家庭にはもちろん一組の夫婦があって、とりもなおさず、それが主人と主婦で、自由結婚だ。彼等は四十何個条かの非常に詳細な、だから極めて平等な、十分に自由な条約を訂結《ていけつ》している。それに高等な教育と、高尚にして優美な……しかし日本の留学生はもう流行らない。――そんなら仮りに西洋の留学生としておこう。主人はいつも洋服を著《き》て、ハードカラーはいつも雪のように真白。夫人は髪の毛に鏝《こて》をかけ、雀の巣のようなモヤモヤの中から雪白の歯を露《あら》わしているが、著物は支那服で……」
「駄目々々、そいつは駄目だ! 二十五斤だよ!」
 窓の外で男の声が聞えたので、彼は思わず頭を横にしてみたが、カーテンは垂れているし、日の光は射し込んで目が眩むばかり。続いて木ッ端をバラ撒くような響がした。
「俺には関係の無い事だ」と思ってみたが
「何が二十五斤なのだろう?」と考えた。
「――彼等は優美高尚で、文芸を深く愛する。けれども幸福に生長して来た人だから、ロシヤの小説は好まない……と云うのは、下等な人間が描かれることが多いからで、こうした家庭には不向なのだ。オヤ『二十五斤』だって? 関係の無いことだ。それでは、彼等はどんな本を読むのだろうか?――バイロンの詩か? それともキーツの詩か? どうもぴったりと来ないな。あー
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