坐し、手を上げて言った。「泣くでないぞ、好い子だから、お父さんはね、猫が顔を洗うところを見せてやるぞ」と、彼は首を伸してペロリと舌を出し、手の掌《ひら》を離して二度ばかり空《くう》を舐めて、その手で自分の顔の上に円を描いてみせた。
「あ、ははは、乞食」
 子供はすぐに笑い出した。
「そうそう、乞食だ」
 彼はまたしてもいくつも円を描いてようやく手を休めてみると、子供はにこにこ笑いながら、涙に濡れている眼で彼を見ている。何んと云う可愛らしい、天真な顔だろうと彼は思った。ちょうど五年ばかり前、この子の母親の脣《くちびる》がこんなに真紅《まっか》だったが、これはその縮少《しゅくしょう》だと思えばいいだろう。あの時は晴れ渡った冬の日で、彼女は、俺がどんな障害にも反抗し、彼女のためであったなら甘んじて犠牲になると云うのを聴いて、この通りに莞爾《にっこ》と笑いながら、涙で一杯になった眼で俺を見たのではなかったか。彼はぼんやりして、そこに坐ったまま、少しは醉《え》い心地になった。
「ああ、可愛い脣……」
 と、彼は思いに耽っていた。
 突然だった。カーテンが開かれて、薪が運ばれて来た。彼はハッとした。子供はまだ涙で一杯になった眼で、真紅《まっか》な脣を開《あ》いたまま彼を見ている。
「脣……」
 彼が側《そば》に眼を呉れた時は、薪はもう運ばれていた。「……おそらくは将来これもまた五五の二五、九九八十一にでもなるんだろう! 二つの眼玉を気味悪く光らせて……」彼はこう思いながら、表題だけ書いた原稿用紙と計算の数字を書いた原稿用紙を手荒く引張り出し、それを揉苦茶《もみくちゃ》にしてまた引き延ばし、子供の涙や鼻涕《はなじる》を拭き取った。
「好い子だから向うへ行って一人でお遊び」
 彼は子供を推しのけながら、紙を丸めて力任せに紙屑籠の中に抛り込んだ。
 彼は子供にも、フイと飽き足らなくなったが、重ねてまた振返えると子供がヨチヨチ部屋を出て行《ゆ》くのを見た。耳には木ッ端の音を聞きながら。
 彼は気を落著《おちつ》けようとして眼を閉じ、雑念を拒止《きょし》して心を落著けて腰を下した。彼は一つのひらたい丸い黒い花が、黄橙《おうとう》の心《しん》をなして浮き出し左眼《さがん》の左角《ひだりかど》から漂うて右に到って消え失せた。続いて一つの明緑花《めいりょくか》と黒緑色《こくりょくしょく》の心と
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