孔乙己
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)魯鎮《ろちん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大抵|袢天著《はんてんぎ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》
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 魯鎮《ろちん》の酒場の構えは他所《よそ》と違っていずれも皆、曲尺形《かねじゃくがた》の大櫃台《おおデスク》を往来へ向けて据え、櫃台《デスク》の内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。仕事をする人達は正午《ひる》の休みや夕方の手終《てじま》いにいちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台《デスク》に靠《もた》れて熱燗の立飲みをする。――これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。――もしモウ一文出しても差支えなければ、筍の塩漬や茴香豆《ういきょうまめ》の皿盛を取ることが出来る。もし果して十何文かを足し前すれば、葷《なまぐ》さの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵|袢天著《はんてんぎ》の方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には身装《みなり》のぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。
 わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店《かんこうしゅてん》の小僧になった。番頭さんの被仰《おっしゃ》るには、こいつは、見掛けが野呂間《のろま》だから上客の側《そば》へは出せない。店先の仕事をさせよう。店先の袢天著は取付き易いが、わけのわからぬことをくどくど喋舌《しゃべ》り、漆濃《しつこ》く絡みつく奴が少くない。彼等は人の手許をじろりと見たがる癖がある。老酒《ラオチュ》を甕の中から汲み出すのを見て、徳利の底に水が残っていやしないか否かを見て、徳利を熱湯の中に入れるところまで見届けて、そこでようやく安心する。こういう厳しい監視の下には、水を交ぜることなんかとても出来るものではない。だから二三日経つと番頭さんは「こいつは役に立たない」と言ったが、幸いに周旋人の顔が利き、断りかねたものと見え、改めてお燗番のような詰らぬ仕事を受持たされることになった。わたしはそれから日がな一日|櫃台《デスク》の内側でこの仕事だけを勤めていたので、縮尻《しくじり》を仕出かすことのないだけ、それだけで単調で詰らなかった。番頭さんはいつも仏頂面していなさるし、お客様は一向構ってくれないし、これじゃいくらわたしだって活溌になり得るはずがない。ただ孔乙己《こういっき》が店に来た時だけ初めて笑声を出すことが出来たので、だから今だにこの人を覚えている。
 孔乙己は立飲みの方でありながら長衫《ながぎ》を著た唯一の人であった。彼は身の長けがはなはだ高く、顔色が青白く、皺の間にいつも傷痕が交っていて胡麻塩鬚が蓬々《ぼうぼう》と生えていた。著物は汚れ腐って、ツギハギもせず洗濯もせず、十何年も一つものでおっとおしているようだ。彼の言葉は全部が漢文で、口から出るのは「之乎者也《ツーフーツエイエ》」ばかりだから、人が聞けば解るような解らぬような変なもので、その姓氏が孔というのみで名前はよく知られなかったが、ある人が紅紙の上に「上大人《じょうたいじん》孔乙己」と書いてから、これもまた解るような解らぬようなあいまいの中に彼のために一つの確たる仇名が出来て、孔乙己と呼ばれるようになった。
 孔乙己が店に来ると、そこにいる飲手は皆笑い出した。
「孔乙己、お前の顔にまた一つ傷が殖えたね」
 とその中の一人が言った。孔は答えず九文の大銭を櫃台《デスク》の上に並べ
「酒を二合|燗《つ》けてくれ。それから豆を一皿」
「馬鹿に景気がいいぜ。これやテッキリ盗んで来たに違いない」
 とわざと大声出して前の一人が言うと、孔乙己は眼玉を剥き出し
「汝はなんすれぞ斯くの如く空《くう》に憑《よ》って人の清白を汚す」
「何、清白だと? 乃公《おれ》はお前が何《か》家の書物を盗んで吊し打ちになったのをこないだ見たばかりだ」
 孔は顔を真赤にして、額の上に青筋を立て
「窃書《せっしょ》は盗みの数に入《い》らない。窃書は読書人の為す事で盗みの数に入るべきことではない」
 そうして後に続く言葉はとても変梃なもので、「君子固より窮す」とか「者ならん乎《か》」の類だから衆《みな》の笑いを引起し店中|俄《にわか》に景気づいた。
 人の噂では、孔乙己は書物をたくさん読んだ人だが、学校に入りそこない、無職で暮しているうちにだんだん貧乏して、乞食になりかかったが、幸いに手すじがよく字が旨く書けたので、あちこちで書物の浄写を頼まれ、飯の種にあ
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