派出所の中から一人の巡査が歩き出して来るまでは何の思付《おもいつき》もなく、それを見てからようやく車を下りた。巡査はわたしに近づいて言った。
「あなたは雇い車でしょう。あの車夫はあなたを挽いてゆくことが出来ません」
 わたしは思いめぐらすまでもなく、外套のポケットから銅貨を一攫《ひとつか》み出して巡査に渡した。
「どうぞこれをあなたから車夫に渡して下さい」
 風はすっかり止んで往来はいとも静かであった。わたしは歩きながら考えたがほとんど自分のことに思い及ぶことを恐れた。以前のことはさておき、今のあの銅貨一攫みは一体どういうわけなんだえ? 彼を奨励するつもりか? わたしはこれでも車夫を裁判することが出来るのか? わたしは自分で答うることが出来ない。
 このことは今でもまだ時々想い出し、わたしはこれに因《よ》って時々苦痛を押し切り、つとめて自分自身に想到しようとする。幾年来の文治と武力は、わたしが幼少の時読み馴れた「子曰詩云《しのたまわくしにいう》」のように、今その半句すらも諳誦《あんしょう》し得ないが、たった一つこの小さな事件だけは、いつもいつもわたしの眼の前に浮んで、時に依るとかえって
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