狂人日記
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大病《たいびょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|時《じ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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某君兄弟数人はいずれもわたしの中学時代の友達で、久しく別れているうち便りも途絶えがちになった。先頃ふと大病《たいびょう》に罹《かか》った者があると聞いて、故郷《こきょう》に帰る途中立寄ってみるとわずかに一人に会った。病気に罹ったのはその人の弟で、君がせっかく訪ねて来てくれたが、本人はもうスッカリ全快して官吏候補となり某地へ赴任したと語り、大笑いして二冊の日記を出した。これを見ると当時の病状がよくわかる。旧友諸君に献じてもいいというので、持ち帰って一読してみると、病気は迫害狂の類で、話がすこぶるこんがらがり、筋が通らず出鱈目《でたらめ》が多い。日附《ひづけ》は書いてないが墨色《すみいろ》も書体も一様でないところを見ると、一|時《じ》に書いたものでないことが明らかで、間々《まま》聯絡《れんらく》がついている。専門家が見たらこれでも何かの役に立つかと思って、言葉の誤りは一字もなおさず、記事中の姓名だけを取換えて一篇にまとめてみた。書名は本人平癒後自ら題したもので、そのまま用いた。七年四月二日しるす。
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        一

 今夜は大層月の色がいい。
 乃公《おれ》は三十年あまりもこれを見ずにいたんだが、今夜見ると気分が殊《こと》の外《ほか》サッパリして初めて知った、前の三十何年間は全く夢中であったことを。それにしても用心するに越したことはない。もし用心しないでいいのなら、あの趙家《ちょうけ》の犬めが何だって乃公の眼を見るのだろう。
 乃公が恐れる理《わけ》がある。

        二

 今夜はまるきり月の光が無い。乃公はどうも変だと思って、早くから気をつけて門を出たが、趙貴翁《ちょうじいさん》の目付《めつき》がおかしいぞ。乃公を恐れているらしい。乃公をやっつけようと思っているらしい。ほかにまだ七八人もいるが、どれもこれも頭や耳を密著《くっつ》けて乃公の噂をしている。乃公に見られるのを恐れている。往来の人は皆そんな風だ。中にも薄気味の悪い、最もあくどい奴は口をおッぴろげて笑っていやがる。乃公は頭の天辺《てっぺん》から足の爪先《つまさき》までひいやりとした。解った。彼らの手配がもうチャンと出来たんだ。乃公はびくともせずに歩いていると、前の方で一群の子供がまた乃公の噂をしている。目付は趙貴翁と酷似《そっくり》で、顔色は皆|鉄青《てっせい》だ。一体乃公は何だってこんな子供から怨みを受けているのだろう。とてもたまったものじゃない。大声あげて「お前は乃公にわけを言え」と怒鳴ってやると彼らは一散に逃げ出した。
 乃公と趙貴翁とは何の怨みがあるのだろう。往来の人にもまた何の怨みがあるのだろう。そうだ。二十年前、古久《こきゅう》先生の古帳面《ふるちょうめん》を踏み潰したことがある。あの時古久先生は大層不機嫌であったが、趙貴翁と彼とは識合《しりあ》いでないから、定めてあの話を聞伝《ききつた》えて不平を引受け、往来の人までも乃公に怨みを抱くようになったのだろう。だが子供等は一体どういうわけだえ。あの時分にはまだ生れているはずがないのに、何だって変な目付でじろじろ見るのだろう。乃公を恐れているらしい。乃公をやっつけようと思っているらしい。本当に恐ろしいことだ。本当に痛ましいことだ。
 おお解った。これはてっきりあいつ等のお袋が教えたんだ。

        三

 一晩じゅう睡《ねむ》れない。何事も研究してみるとだんだん解って来る。
 彼等は――知県《ちけん》に鞭打たれたことがある。紳士から張手《はりで》を食《くら》ったことがある。小役人から嚊《かかあ》を取られたことがある。また彼等の親達が金貸からとっちめられて無理死《むりじに》をさせられたことがある。その時の顔色でもきのうのようなあんな凄いことはない。
 最も奇怪に感じるのは、きのう往来で逢ったあの女だ。彼女は子供をたたいてじっとわたしを見詰《みつ》めている。「叔《おじ》さん、わたしゃお前に二つ三つ咬《か》みついてやらなければ気が済まない」これにはわたしも全くおどかされてしまったが、あの牙ムキ出しの青ッ面《つら》が何だかしらんが皆笑い出した。すると陳老五《ちんろうご》がつかつか進んで来て、わたしをふんづかまえて家《うち》へ連れて行った。家《うち》の者はわたしを見ても知らん振りして書斎
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