ろがこの怒目《どもく》主義を採用してから、未荘のひま人はいよいよ附け上がって彼を嬲《なぶ》り物にした。ちょっと彼の顔を見ると彼等はわざとおッたまげて
「おや、明るくなって来たよ」
阿Qはいつもの通り目を怒らして睨むと、彼等は一向平気で
「と思ったら、空気ランプがここにある」
アハハハハハと皆は一緒になって笑った。阿Qは仕方なしに他の復讎の話をして
「てめえ達は、やっぱり相手にならねえ」
この時こそ、彼の頭の上には一種高尚なる光栄ある禿があるのだ。ふだんの斑《まだ》ら禿とは違う。だが前にも言ったとおり阿Qは見識がある。彼はすぐに規則違犯を感づいて、もうその先きは言わない。
閑人《ひまじん》達はまだやめないで彼をあしらっていると、遂にに打ち合いになる。阿Qは形式上負かされて黄いろい辮子《べんつ》を引張られ、壁に対して四つ五つ鉢合せを頂戴《ちょうだい》し、閑人はようやく胸をすかして勝ち慢《ほこ》って立去る。
阿Qはしばらく佇んでいたが、心の中《うち》で思った。「[#「「」は底本では欠落]乃公はつまり子供に打たれたんだ。今の世の中は全く成っていない……」そこで彼も満足し勝ち慢《ほこ》って立去る。
阿Qは最初この事を心の中《うち》で思っていたが、遂にはいつも口へ出して言った。だから阿Qとふざける者は、彼に精神上の勝利法があることをほとんど皆知ってしまった。そこで今度彼の黄いろい辮子を引掴《ひっつか》む機会が来るとその人はまず彼に言った。
「阿Q、これでも子供が親爺《おやじ》を打つのか。さあどうだ。人が畜生を打つんだぞ。自分で言え、人が畜生を打つと」
阿Qは自分の辮子で自分の両手を縛られながら、頭を歪めて言った。
「虫ケラを打つを言えばいいだろう。わしは虫ケラだ。――まだ放さないのか」
だが虫ケラと言っても閑人は決して放さなかった。いつもの通り、ごく近くのどこかの壁に彼の頭を五つ六つぶっつけて、そこで初めてせいせいして勝ち慢《ほこ》って立去る。彼はそう思った。今度こそ阿Qは凹垂《へこた》れたと。
ところが十秒もたたないうちに阿Qも満足して勝ち慢《ほこ》って立去る。阿Qは悟った。乃公は自《みずか》ら軽んじ自ら賤《いや》しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ。状元《じょうげん》もまた第一人じゃないか。「人を何だと思っていやがるんだえ」
阿Qはこういう種々の妙法を以て怨敵を退散せしめたあとでは、いっそ愉快になって酒屋に馳けつけ、何杯か酒を飲むうちに、また別の人と一通り冗談を言って一通り喧嘩をして、また勝ち慢《ほこ》って愉快になって、土穀祠《おいなりさま》に帰り、頭を横にするが早いか、ぐうぐう睡《ねむ》ってしまうのである。
もしお金があれば彼は博奕《ばくち》を打ちに行《ゆ》く。一かたまりの人が地面にしゃがんでいる。阿Qはその中に割込んで一番威勢のいい声を出している。
「青竜四百《ちんろんすーぱ》!」
「よし……あける……ぞ」
堂元は蓋を取って顔じゅう汗だらけになって唱《うた》い始める。
「天門《てんもん》当《あた》り――隅返《すみがえ》し、人と、中張《なかばり》張手《はりて》無し――阿Qの銭《ぜに》はお取上げ――」
「中張百文《なかばりひゃくもん》――よし百五十|文《もん》張ったぞ」
阿Qの銭はこのような吟詠のもとに、だんだん顔じゅう汗だらけの人の腰の辺に行ってしまう。彼は遂にやむをえず、かたまりの外《そと》へ出て、後ろの方に立って人の事で心配しているうちに、博奕《ばくち》はずんずん進行してお終《しま》いになる。それから彼は未練らしく土穀祠《おいなりさま》に帰り、翌日は眼のふちを腫らしながら仕事に出る。
けれど「塞翁《さいおう》が馬を無くしても、災難と極《き》まったものではない」。阿Qは不幸にして一度勝ったが、かえってそれがためにほとんど大きな失敗をした。
それは未荘の祭の晩だった。その晩例に依って芝居があった。例に依ってたくさんの博奕場《ばくちば》が舞台の左側に出た。囃《はやし》の声などは阿Qの耳から十里の外へ去っていた。彼はただ堂元の歌の節だけ聴いていた。彼は勝った。また勝った。銅貨は小銀貨となり、小銀貨は大洋《だーやん》になり、大洋《だーやん》は遂に積みかさなった。彼は素敵な勢いで「天門両塊《てんもんりゃんかい》」と叫んだ。
誰と誰が何で喧嘩を始めたんだか、サッパリ解らなかった。怒鳴るやら殴るやら、バタバタ馳け出す音などがしてしばらくの間眼が眩んでしまった。彼が起き上った時には博奕場も無ければ人も無かった。身中《みうち》にかなりの痛みを覚えて幾つも拳骨を食《く》い、幾つも蹶飛《けと》ばされたようであった。彼はぼんやりしながら歩き出して土穀祠《おいなりさま》に入った。気がついてみると、あれほどあった彼のお金は一枚も無かった。博奕場にいた者はたいていこの村の者では無かった。どこへ行って訊き出すにも訊き出しようがなかった。
まっ白なピカピカした銀貨! しかもそれが彼の物なんだが今は無い。子供に盗《と》られたことにしておけばいいが、それじゃどうも気が済まない。自分を虫ケラ同様に思えばいいが、それじゃどうも気が済まない。彼は今度こそいささか失敗の苦痛を感じた。けれど彼は失敗を転じて遂に勝ちとした。彼は右手を挙げて自分の面《おもて》を力任せに引ッぱたいた。すると顔がカッとして火照《ほて》り出しかなりの痛みを感じたが、心はかえって落ち著《つ》いて来た。打ったのはまさに自分に違いないが、打たれたのはもう一人の自分のようでもあった。そうこうするうちに自分が人を打ってるような気持になった。――やっぱり幾らか火照《ほて》るには違いないが――心は十分満足して勝ち慢《ほこ》って横になった。
彼は睡ってしまった。
第三章 続優勝記略
それはそうと、阿Qはいつも勝っていたが、名前が売れ出したのは、趙太爺の御ちょうちゃくを受けてからのことだ。
彼は二百文の酒手《さかて》を村役人に渡してしまうと、ぷんぷん腹を立てて寝転んだ。あとで思いついた。
「今の世界は話にならん。倅が親爺を打つ……」
そこでふと趙太爺の威風を想い出し、それが現在自分の倅だと思うと我れながら嬉しくなった。彼が急に起き上って「若|寡婦《ごけ》の墓参り」という歌を唱《うた》いながら酒屋へ行った。この時こそ彼は趙太爺よりも一段うわ手の人物に成り済ましていたのだ。
変槓《へんてこ》なこったがそれからというものは、果してみんなが殊《こと》の外《ほか》彼を尊敬するようになった。これは阿Qとしては自分が趙太爺の父親になりすましているのだから当然のことであるが、本当の処《ところ》はそうでなかった。未荘の仕来《しきた》りでは、阿七《あしち》が阿八《はち》を打つような事があっても、あるいは李四《りし》が張三《ちょうさん》を打っても、そんなことは元より問題にならない。ぜひともある名の知れた人、たとえば趙太爺のような人と交渉があってこそ、初めて彼等の口に端《は》に掛るのだ。一遍口の端に掛れば、打っても評判になるし、打たれてもそのお蔭様で評判になるのだ。阿Qの思い違いなどもちろんどうでもいいのだ。そのわけは? つまり趙太爺に間違いのあるはずはなく、阿Qに間違いがあるのに、なぜみんなは殊の外彼を尊敬するようになったか? これは箆棒《べらぼう》な話だが、よく考えてみると、阿Qは趙太爺の本家だと言って打たれたのだから、ひょっとしてそれが本当だったら、彼を尊敬するのは至極穏当な話で、全くそれに越したことはない。でなければまた左《さ》のような意味があるかもしれない。聖廟《せいびょう》の中のお供物のように、阿Qは豬羊《ちょよう》と同様の畜生であるが、いったん聖人のお手がつくと、学者先生、なかなかそれを粗末にしない。
阿Qはそれからというものはずいぶん長いこと偉張《いば》っていた。
ある年の春であった。彼はほろ酔い機嫌で町なかを歩いていると、垣根の下の日当りに王※[#「髟/胡」、133−4]《ワンウー》がもろ肌ぬいで虱《しらみ》を取っているのを見た。たちまち感じて彼も身体がむず痒《がゆ》くなった。この王※[#「髟/胡」、133−5]は禿瘡《はげがさ》でもある上に、※[#「髟/胡」、133−6]《ひげ》をじじむさく伸ばしていた。阿Qは禿瘡《はげがさ》の一点は度外に置いているが、とにかく彼を非常に馬鹿にしていた。阿Qの考《かんがえ》では、外《ほか》に格別変ったところもないが、その顋《あご》に絡まる※[#「髟/胡」、133−7]《ひげ》は実にすこぶる珍妙なもので見られたざまじゃないと思った。そこで彼は側《そば》へ行って並んで坐った。これがもしほかの人なら阿Qはもちろん滅多に坐るはずはないが、王※[#「髟/胡」、133−9]の前では何の遠慮が要るものか、正直のところ阿Qが坐ったのは、つまり彼を持上げ奉ったのだ。
阿Qは破れ袷《あわせ》を脱ぎおろして一度引ッくらかえして調べてみた。洗ったばかりなんだがやはりぞんざいなのかもしれない。長いことかかって三つ四つ捉《とら》まえた。彼は王※[#「髟/胡」、133−12]を見ると、一つまた一つ、二つ三つと口の中に抛《ほう》り込んでピチピチパチパチと噛み潰した。
阿Qは最初失望してあとでは不平を起した。王※[#「髟/胡」、133−14]なんて取るに足らねえ奴でも、あんなにどっさり持っていやがる。乃公を見ろ、あるかねえか解りゃしねえ。こりゃどうも大《おおい》に面目のねえこった。彼はぜひとも大きな奴を捫《ひね》り出そうと思ってあちこち捜した。しばらく経ってやっと一つ捉《とら》まえたのは中くらいの奴で、彼は恨めしそうに厚い脣の中に押込みヤケに噛み潰すと、パチリと音がしたが王※[#「髟/胡」、134−4]の響《ひびき》には及ばなかった。
彼は禿瘡の一つ一つを皆赤くして著物を地上に突放し、ペッと唾を吐いた。
「この毛虫め」
「やい、瘡《かさ》ッかき。てめえは誰の悪口を言うのだ」王※[#「髟/胡」、134−7]は眼を挙げてさげすみながら言った。
阿Qは近頃割合に人の尊敬を受け、自分もいささか高慢稚気《こうまんちき》になっているが、いつもやり合う人達の面を見ると、やはり心が怯《おく》れてしまう。ところが今度に限って非常な勢《いきおい》だ。何だ、こんな※[#「髟/胡」、134−9]《ひげ》だらけの代物が生意気|言《い》やがるとばかりで
「誰のこったか、おらあ知らねえ」阿Qは立ち上って、両手を腰の間に支えた。
「この野郎、骨が痒くなったな」王※[#「髟/胡」、134−12]も立ち上がって著物を著た。
相手が逃げ出すかと思ったら、掴み掛《かか》って来たので、阿Qは拳骨を固めて一突き呉《く》れた。その拳骨がまだ向うの身体《からだ》に届かぬうちに、腕を抑えられ、阿Qはよろよろと腰を浮かした。※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じつけられた辮子は墻《まがき》の方へと引張られて行って、いつもの通りそこで鉢合せが始まるのだ。
「君子は口を動かして手を動かさず」と阿Qは首を歪めながら言った。
王※[#「髟/胡」、135−3]は君子でないと見え、遠慮会釈もなく彼の頭を五つほど壁にぶっつけて力任せに突放《つっぱな》すと、阿Qはふらふらと六尺余り遠ざかった。そこで※[#「髟/胡」、135−4]《ひげ》は大《おおい》に満足して立去った。
阿Qの記憶ではおおかたこれは生れて初めての屈辱といってもいい、王※[#「髟/胡」、135−5]は顋《あご》に絡まる※[#「髟/胡」、135−5]《ひげ》の欠点で前から阿Qに侮られていたが、阿Qを侮ったことは無かった。むろん手出しなど出来るはずの者ではなかったが、ところが現在遂に手出しをしたから妙だ。まさか世間の噂のように皇帝が登用《とうよう》試験をやめて秀才も挙人《きょじん》も不用になり、それで趙家の威風が減じ、それで彼等も阿Qに対して見下すようになっ
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